先日、あるお得意さんから、一部欠品ありの世界文学全集を頂戴しました。40冊以上あります。



これは夏休みのいいプレゼントが出来たわい、と
えっちら持ち帰ってみたら、
子供たち、まーったく興味をしめさない。



世界の珠玉の名作だよ。
良い子だったら、三尺下がって、「へへー、有難き幸せ」と
平伏するぐらいが当たり前だろが?
それが礼儀なんじゃないのか?



ところが、はなも引っ掛けない。



「世界の文学」は、いったいどうなる?



シェークスピアが、
ドストエフスキーが、チェーホフが、リルケが、カフカが、
絶滅危惧種になっちまうのかい?
 おれも読んでないけど。



世界文学は私の専門外だが、日本のだったらちょっとうるさいよ。
「寛永三馬術」の真垣平九郎が江戸城(?)の石段をパカランパカラン駆け上るとこなんか、しびれましたね。
それから、日本人の心を育んだ「立川文庫」ネ。
真田幸村、猿飛佐助、霧隠才蔵、三好清海入道、穴山小助とか、
真田十勇士の全員、あなた、言えますか?
忘れてはいけない、『少年探偵団』。
えーと、まあ、これだけ読めば日本文学のオーソリティー、
と言えるでしょう。



かように、私どもにとって文学は、世界あるいは人間の構造に接する・もしくは解き明かすもっとも手っ取り早い手段でした。



今の子どもたちにとって、「世界」って、何なんでしょう?



私たちにとって、「世界」とは、魑魅魍魎が跋扈する「異界」だったのに、彼らには、言葉や肌の色が違うだけの、陸続きの人間だと認識されているのでしょう。



彼らのグローバリズムが間違っているとは言えません。
河童や天狗や魑魅魍魎が絶滅したと同時に
「異界」もまた消滅したのです。



現実感が乏しくなった「異界」の物語は、柳田国男が言うとおり、
子供の伝承(説話)や遊戯に遺されるばかりです。
かつては「桃太郎」などの童話や「かくれんぼ」などのゲームのなか



に、今でしたら、漫画やTVゲームのなかに。



子供達の世界認識の基礎は、漫画やTVゲームによって
仕込まれると言えるかもしれません。



私たちにとって、ひと山向こうは別の世界だったのですが、
彼らの世界はもっと平坦(平板)になっているのです。
世界を隔つ山も大洋も、なくなってしまった。
ここ50年ほどで起きた(世界認識上の)大地殻変動だといえるでしょう。



世界も他人も、自分でさえ、もはや「謎」になりえない。
たんに世界を構成するモザイクの一片になる。
宇宙や自然の垂直的な方向だけが僅かに残されるばかりだ。



人生とは何だ?人間とは何だ?と悶え苦しんだ文学も
歴史上の一コメディーになる。



昨夜(8/13)、菅野美穂主演の『四谷怪談』を見ました。
「四谷怪談」てこの程度のものだったかねえ。
お岩さんは、やっぱり若尾文子でなくっちゃね。



それぞれの人物の「いた仕方なく、かくありぬ」が、
かろうじて保存されていたことが、救いでした。
もっと、じっとりと描いてほしかったが。



怪談の持つリアリティーも希薄になりました。
「文学」もそうなるんでしょうか。                2002.8.14