080213 先史時代には、アイヌもそうだけど、言葉は発語され相手の耳に届いて直ちに消えていった。声調、音韻の快は、韻や五・七・五音やリズムやルフランを生んだ。
記述される言葉を考案してからも、抽象され・削ぎ落とされてしまった<肉声>の快に詩人たちは依然望郷の念を持ち続けている。
耳から入るように目から入る詩を、遺産相続者たる詩人たちは望んだんだろう。



もともと詩は音楽だった。
目で読むものではなく、(耳から入る)詠むべきものだった。
世界一の読む言葉=漢語だって、声調がまず大事だった。
漢詩もすぐれて音楽的だった、とぼくは思っている。
中世のインテリたちや空海や道元は音楽性を置き去りにし、
概念のみを導入したのではないか?
 「くうかい」と言われたって、
 「そうだな、腹減ったな」と答えるのが庶民である。
まったく実証的ではないけどね。
その分は声明(しょうみょう・仏前に読誦ドクジュする歌詠のこと)で補填した、と彼らは弁解するかもしれないけどね。



耳に行く言葉を拒否したのは、高村光太郎や(その他いろいろいるけど略)戦後の「荒地派」です。
耳に快い言葉より、直截脳髄(精神)にとどけよ!でした。
花鳥風月の(嘘くさい)叙情を遠ざけて新天地を開拓しました。
新しいものを作らない詩人なんぞ、いらねーよ。



僕はですね、中也と荒地派の子ですからね、
モダンな叙情が好きなんです。
実を申しますと、お気楽亭は叙情派なんであります。
モンスーン気候帯派、と言ってくれてもいい。
乾いた(アメリカ西海岸)風土に死ぬほど憧れている
じっとり湿ったブログなのである。
純情に泣き濡れた男だと呼んでくれたら、嬉しいな。



この雑多なブログ界だって、ずいぶんと湿っぽいではないか。
かび臭い、と言うやつもいないことはなかろう。
せめて、音楽の富をテキストに繰り入れようじゃありませんか。



言葉、テキストに音楽を。
これがお気楽亭の非望なのである。