嫌な朝
浅い睡りの底で
牛乳配達が白く粘る液体を
牛乳箱に投げ入れて走ります
彼はいつも不吉のもののように投げるので
みな恐れて目を覚ましてしまう
僕は毎朝それを飲むのです
ぐらぐらと煮たてて
女は紅茶をゆっくり飲みます
穏やかな朝を祝福もせず
半熟玉子をフォークで刺せば
黄色い昨日が
とろとろと逃亡します
(ラジオの天気予報では
今日もいい天気)
カチャンと小さな音をたてて
女はカップを皿に置きます
それから
「庭で蛇が卵を産んでいるのよ」と言います
僕はそれを知っていたけれど
(ここには窓も庭もない)
何でもないよとほほえみます
二人はふふふと笑って朝食を終ります
「ごちそうさま」
それから大きく伸びをして
僕は仕事に出かけるのです
台所でナイフの落ちる音が響きます
僕は女に手を振ってアパートを出ます
女はそっと子供を産みます
僕はそれを知らない (74.2.3)
失踪
きみが何処へ行ったのか
もう誰も断言することはできなくなった
遠い目をして
想い出や後悔を語ってみることも
できる
そしてぼくらも同じように
消えてしまうこともできるだろう
ところが実際は
きみの行き先を
きみも そしてぼくらも
誰に告げることもできない
「白々と繰返す七曜表(カレンダー)だけが
ぼくらの時代の特質じゃあないよ」
判読できないきみの遺言は
いつか褐色に変色して
風に吹き飛ばされるまで
ぼくらの心を苦しくする
そうだった
ぼくらは間に合わない思想を
期限の切れた定期券のように
持て余していたのだ
きみに知らせたいことは何もない
言いかけて飲み込んだ言葉も
壁にピンナップするほどの高さはない
取り交されなかった言葉だけが
ぼくらが所有しえた一切のものだった
きみも そしてぼくらも
証人も書記官も
傍聴人も弁護人もいない
それぞれの裁きの部屋に出かける
何年か後に
ぼくらが出遇うことができても
お互いの罪の数を数えることはせず
さりげなく手を振って別れよう
その時には
ぼくらはもう十分にナンセンスになっているだろうから
(74.2.12)
橋上の強盗
買物にいくためであったか
女の所に行くのであったか
陸橋を越える
鉄製の建築物は歩道をもぎ取っている
そのため階段を登るか登らぬかは
一つの意志である
階段は踊り場を中心に
逆方向に捩れている
両側を手摺に挟まれて
僕は捩れながらここを通過するのである
僕がそこで遇ったのは強盗ではない
もっとひっそりと 手摺に
《ちょうだい》と書かれていただけだ
与えるのでもなければ
奪い取られるのでもない
僕の何が欲しいのか 欲しくないのか
回答の与えられない質問のために僕は
無用の者のようにここを素通りし
罪人のように階段を駆け降りる
ぐったりとした疲労を
死んだ猫のように抱き
僕は動機を掠め取られたのを知ったのだ
(75.1.10)
Papa is a Rolling stone
パパは一度もお家に帰らなかった、なんて
そんなこと親に言うんじゃない
それがお前にはさびしい事実であっても
僕には払えない負債だ
お前は強慾な高利貸しになっちまってよ
俺の零落するのを愉しんでいやがってよ
と思うのは
僕の罪のせいか?
お前のガーゼの下着を買うために僕は
スーパーマーケットへ行った
買物篭をぶら下げ
うろうろとあっちからこっち
そのまま迷子になってしまったのだ
空っぽの買物篭には満たされない
願いがいっぱいで重い
大人だって迷子になるさ
お前が遺して棄てていった時間が
僕には暗すぎるためだ
お前の網膜には
いつまでも空っぽの買物篭をぶら下げて
マーケットの雑踏をさまよっている僕が
ひっかかっている
お前の肌着はとうとう買い損ねてしまった
その代わり お前のために
ドラム缶のお舟をこさえてあげよう
お前の上には
雪のようなものが降り積もるだろう
僕の上には?
僕はお前より早く老い
お前より長寿だ
僕は眠れない父だ (75.1.11)
落下するスプーンの従順
スプーンがきらりと床に落ちる
まわりに切断された<シアワセ>
と<フシアワセ>
が拡がる
何と言ってもここは
空白ではないのだから
どんづまりまで拡がってしまう
床のスプーンは
最初からここにあったと主張する
が多分
もともとはテーブルの上の皿にあった
のではないかと考えられる
テーブルから床までには
どんな距離が
どんな時間が
埋まっていたか
ほんの僅かの手違いで
スプーンは落下することができる
スプーンのきらめきは落下を啓示していたが
われわれに残されるのは
床のスプーンだ
手違いは必ずやられる
そういう時われわれは
スプーンを
落とした
と言うのである
啓示は遺影の形で現われ
判読せられるより速く過ぎ去る
われわれはスプーンのきらめきを
ただ見ているしか能が無い
<シアワセ>も<フシアワセ>も
無能の証しとして
われわれの後ろから追いすがる
深夜の食事
1
”JACTA EST ALEA”
賽は投げられた
もうカエサルの時代じゃない
この世界は斜面なのだ
いたる所
意志しない転落がある
重いから落ちるのではない
近代では
引き合うから落ちるのだ
物理学の教科書は
そっ気なくそう教えていた
2
苺の上に
牛乳と砂糖をぶち撒け
スプーンで圧し潰す
胃腸薬の匂いがしないか
そんなはずはない
体をくねらせて
シャツを着ながら
ネェ、アタシノ胸、カッコイイ?
とサエコは聞いた
知らなかった
そういう判断のしかたが
ぼくにできることを
ウン、トテモ、イイヨ
と答えておいた
美学上の問題ではなく
礼儀上の問題でもなく
異存はないのだ
3
二人は食べる
深夜のイチゴミルクを
桜色の口腔の中で
執拗に咀嚼される
赤い果実と白い液体
目出たくもない食物史
こいつのおかげで
ぼくらはもう何年生きた?
更に何年生きる?
深夜二つの口は
スピーディに
正確に
喰らい続ける
陰気な快楽が
喉元を降りて行く
われわれは一本のチューブ
4
青白く輝く矩形
のブラウン管に照らされて
すべては明白になる
番組はすべて終了
(また明日)
これからどうしよう
残り時間が
テーブルクロスから長く垂れ下がっている
それから先は?
ぼくに聞いても分からない
それから先は・・・・・・
テレビを切る時に
痛みがあった
痛覚の支配圏の外に
繋がっているのだろう
ぼくたちの
知ったことではない
また明日だ
ぼくらは
昂然と深夜の食事を終えた (76.2.6)
1976年を酔っ払う
サエコは石女ではない。
呑み屋のとまり木でビールをあおって
白痴的な媚を気前良くばら撒いていた。
サエコがF屋に来なくなって久しい。
今夜は別の女が
別のやり方で
同じように立ち騒いでいる。
俺はお銚子5本で(あるいは7本?)
てもなく酔って
乱れず、いくらか荘重に
おさらばする。
涙ぐむ歳でもなく
薄汚れたヒーローにコートを着せて
ひらりと外に舞い出でる。
あいにく霧(ガス)も出ていない。
泣きを見せるな。
快活に、さっそうと別れよ。
大丈夫である。
ちゃんちゃらおかしい。
三軒茶屋の歓楽街はずいぶん寂しくなった。
マルクス・ボーイもいなければ
怪しげな想念を振り廻す文学青年もいない。
革命志願兵は姿をくらませた。
かく言う俺も
小市民になりたくて身悶えしてるって訳だ。
かつての若き革命家は
1976年の冬には
栄通りの電信柱にかきついて
ゲロを吐いているうらぶれた一人の酔漢である。
革命は無期延期になった。
こんな胃弱では心もとない。
1976年はこんな寂しい始まりとなった。
さようなら、さようなら。
僕は下宿に帰って寝ちまうのだ。
僕の肩を借用して泣いていた女は
ちゃんと帰れたろうか?
そんな心配はしないぜ。
それ見ろ、まっすぐ歩けやしない。
下宿はまだだろうか。
サエコの胸には二つの乳房。
サエコの腹には一つのおへそ。
もっと下には立派な性器。
サエコは石女じゃない。
朝の挨拶
やあ おはよう
こんなに早く何の用です
もしもし
君は誰?
男の子? 女の子?
どうやらしくじったらしい
待ちくたびれた
名前だけが残って
ぼくだけが朝っぱらから
狂いはじめている
もしもし
遠い所から
話しかけてくる
駅のホームは寒い
公園の電話ボックスは怖い
世界中 どこからでも
君は話しかけてくる
ぼくを一人ぼっちにさせないよう
義理がたく
脅迫じみて
もう少し後にしてください
こんなに朝早く
人を起こすのは
失礼じゃないか
そんな約束はしない
君は悪い人じゃなさそうだが
こういうのが君の作法か
できることなら
お付き合いは御免だ
眠りの破れ目に
強引に割り込んでくる
君の挨拶
ぼくはだんだん不愉快になる
去年の夏は伊豆の海水浴場で潮に流されて困ったな 懸命に泳いでもちっとも進みやしなかった 無駄だ 泳ぐのなんか止めたらどうだ がぼくはせっせと水を掻いていた おかげで今だにこうやって生きている 絶望も希望もぼくには高級すぎるってことだ 君だったらどうだ 君は次に抜け落ちる髪の毛を指定できるか 君は一つの泳法を知っていると思っている けれど君が泳ぐのを止めない限り君が知っているのは泳法ではなく泳ぐこと自体ではないか ここは雲見の海か
目覚めの時は
いつも危機を湛えている
素早く床を畳んだ方が勝ちだ
朝の心理を舐め廻していると
きっと魔が刺すのだ
礼儀知らず君の声に
屈服する
何が来ても
屈服できる準備をする
気息を正し
身構える
確率通りなら
その後に来るのが後悔である
(76.3.23)
椅子のある思想
*
無人の揺り椅子が揺れ
私は劇場の固い椅子で
アメリカ西部に吹く風を想っている
健康で 体格の良い
乾いた
欲望が憧れだった
銃弾は確実に発射され
敵は確実に倒れる
傷ついた者にも
明るい陽光と
開放された絶望があるはずだった
揺り椅子に座る
私の髪の毛の間に
砂埃が静かに吹き込む
ここはテキサスではなかったが
私は鎖骨を撃ち抜かれて
前後に揺れているのだ
二つの死点の間を
* *
肩の陽溜まりに
善意者の孤独を暖め
髪を指で梳けば
忘れていた過失が絡みついてくる
善意も搾取されることが分かった
この時代とヒーローの個人的な
悲しみは釣り合わない
辛い心にも
吐いた息と等量の大気は返らない
挙し出した右手に
蜉蝣のように祖霊が留まる
そこから夜が始まる
暗くなるまでに考えておけ
二つの死点に包囲されているのは
誰であるか
ある幾何学では
直線も曲線も同等に扱われる
そこまで微分してゆくと
一切は棒のように
つっ立って見える
寂しいか
いいや
これは古代からのメタフィジックだった
* * *
ヒーローの失意にはいいところがある
それが世界のどんな交換であったか
知らないままくたばってしまうほどには
十分に愚かであったと
伝記作家には書いてもらいたい
身一つを一本の世界線に
という希求のほかに置き所のなかった
彼のひしゃげた無念をなぞる
私はロクデナシの悪漢だ
むしろ凶悪な犯罪のある所
生きることが許されない町へ行くのだ
椅子から立ち上がり
コーラの空瓶を蹴散らし
劇場の暗がりを揺らせ
出口に向ったが
まだ肩の傷が痛むので
うまくせせら笑うことができない
以上は1980年5月に発行された『同行衆 10号』に中村哲明名で発表されたものです。よもやここまで読みに来る人はいなかろうと思って『お気楽亭』の奥深くに再録・収蔵することにした。主宰者の鎌倉諄誠氏はすでにない。左の写真の風呂も、もちろん、ない。
各詩の間に2行空けようとしたのですが、ココログはなぜか2行空キができないのです。
拾遺集3
あなたのセクスに
あなたはわたしのセクスに触れる手がある
わたしにはあなたのセクスに触れる手がない
コーヒーカップを持つあなたの手は猥褻だ
あなたのなまめく手が傾くと
わたしのセクスがゆらゆらとうねる
わたしは右手でたばこを潰しながら
コーヒーカップの底に沈む冷えた欲情を飲む
ガラス窓の外は雨だ
俗な目鼻のわたしが窓の外から嗤いかけている
意味がやわらかに削げ落ちていくのを
気弱に納得する
もう出よう
雨傘の群れの中を
わたしたちは美しい恋人同士のように
手を繋ぎ駈け抜ける
バス停の前で
笑いながら
手を振って別れるのだが
<さようなら>
<ああ さようなら>
言いそびれた言葉が舌の裏側で
いつまでも生き残る
あなたはわたしのセクスに触れる
わたしにはあなたのセクスが聖母のように遠くにある
アウラ
踏まない
美しい記憶や哀愁を踏まない
三尺さがって
死の影を踏まず
オレンジのように球体を夢みている
アウラ
世智におびえ
思惟のみみずばれにまつわる感傷を
ひとつひとつ川に流している
カルマン渦の上を古典的な歌曲が渡る
鶏頭の根元や
夕闇の立ちのぼる水辺に溜まる
のが死というものだ
世界は徐々に水っぽくなる
愛の渇きも水っぽくなる
ここの殺気だつ貪欲を埋め
鉱物のような形態を夢みている
アウラ
警告はまわりにあふれているが
悟らない
救援も頼まず
知をも踏まず悪びれず
引かれ者の小唄を歌う
静かでいい季節が
アウラから始まろうとしている