よさこい祭りに限らず、祭りに踊りは付き物です。
僕は、幼稚園児のころ「ウサギのダンス」て歌を聞いて、
ウサギも踊るんやなー、と感心したとです。
 何年経っても、踊るウサギは見たことがないです。ヒロシです。
子供に踊りは、関係ない。
「お遊戯」そのものが踊りだったからのう。



祭りの起源のもう一つは、シーズンの終わりです。
はっきり言えば、親や子、あるいは同胞の弔いです。
「弔い」、僕は、これこそが「祭り」のはじめだと思っています。



祭りは、なにがなしに「目出たさ」と連動するものと考えがちですが、
僕は、喪失感の共有こそが(氏族)共同体の結節点としての「祭り」
=葬式、になったんじゃないかと考えています。



学術的な根拠は?
そんなもの、俺は知らんよ~!
俺は知らんけんどもね、きっと誰かがね、
「それもありです」という報告を某民俗学誌に発表していますて。



死は、誰にでもいずれ訪れるものですから、
動物にとっては、格別な感慨をもたらすものではない。
が、こと人間にとっては格別な事件になってしまったのです。
「弔い」がはじまったのは、人類史の起源と同じではないか。



死はゴロタ石ではなく、
発見すべき・創造すべき「事件」となったのです。
「死」が生まれたことで人間が生まれた、と言えるでしょう。



昔観たギリシャ映画『その男ゾルバ』(マイケル・コカヤニス監督)で、
アンソニー・クインがごく親しい人(母親?誰だったか忘れた)の葬式で
踊りだすシーンがありました。
葬式で踊ってええんかい!?不謹慎な、という思いと、
とても自然でいいんでないか!の感慨がねじれて、
忘れられないシーンではありました。
踊るしか方策がない、ってこともあるだろうし、
アメノウズメノミコトだってそうだったろうし、
先回の宮沢賢治も、この際踊るしかなかったのだろう。



たかだか100リットルに満たない身体がどうじたばたしたって、
その「ウェーブ」が届く範囲は知れたものです。
肉体の(踊りの)富を、言葉(歌)が収奪していった。
粗雑に過ぎるかも知れませんが、そう言えなくもない。
肉体が置いてけぼりを食わされているのは、ご存知の通りです。
「言葉」は世界を(観念の及ぶ範囲を)駆け回っていますが、
この肉体は局所に這いつくばっているしかない。
交通機関がなんぼ発達したって、肉体の動ける範囲はたかがしれている。



限定された肉体の場所の内部で、
肉体を超出するあるものが孕まれていた。
「言葉」というエイリアン・ベイビーがね。
  預言者は、いずれ、言葉が母胎を食い潰すだろう、と言った。



「現代舞踏」なら、いくつか観たことがある。
「天象儀館」の笠井叡は、
現代の理知からアメノウズメノミコトに接続しようとしていた。
大駱駝館の麿赤児は、<俗>に繋がることを切望していた。
『アルヘンチーナ頌』の大野一雄は、---これはすごかった。
言葉の方が肉体より高尚なのだと思っていた僕の小癪を
完璧に打ち壊してくれた。



 まあ、なんだ、参考までに(出典を)書いておけば、
 「女は俺の成熟する場所だった。書物に傍点をほどこしては
 この世を理解して行こうとした俺の小癪な夢を一挙に破ってくれた。」
 と、小林秀雄は言っております。(『Xへの手紙』



 今でもいるでしょ、「書物に傍点」派は。
 へへーって平伏する駄インテリもね。



「舞踏」は、肉体に還って来ない言葉(思想)は意味に乏しいものだ、
ということを証言しているのではないでしょうか。
都市生活者にとってダンスなど縄文時代の神話だと思われている。
でもねえ、言葉のダンスが跋扈しまくっているのに、
舞踏のパワーが衰弱するのみだったら、ちょっと納得いかない。



よさこいダンスやストリート・ダンスの快が、ウソである訳はないし、
スポーツの技や政治家の見てくれのパフォーマンスや、
歌舞伎などの役者の所作が人々を惹きつけるのは、
鍛錬の末身につけた美技だからというよりも、
怒ったときには眉根吊り上げたり髪の毛逆立てたり、
疲れた時には足取り重かったり、嬉しいときは飛び跳ねたりの、
肉体の一義的な(プリミティブな)反応と橋が架かった状態、
が実現したからではないか、と僕は考えるのだ。



なぜ人間は踊るのだろう。
踊りはなぜ観客を呼び込むのだろう。



おいらのゴタクはさておき、ま、とにかくね、
舞踏は面白いと言いたかったのである。
都市インテリ(いるんかい?)向けの舞踏もあれば、
伝統芸能みたいな舞踏もあるし、
「ダンス甲子園」みたいなストリート系のダンスもある。
 (→またやってほしいな。Jポップのバックダンスじゃなくさ。)
みな、それぞれの角度で面白さを放射しています。
ですから、あなた好みの舞踏は、どこかに必ずある。



踊る女・アメノウズメノミコトでも、ストリッパーでも、ゾルバでも、
「ダンス・ウイズ・ウルヴス」でも、宮沢賢治でも、盆踊りでも、
「かごめかごめ」でも、「白鳥の湖」でも、ニジンスキーでも、
ディアギレフでも、「シャル・ウイ・ダンス」でも、ねぶたでも、
エグザイルでも、花柳流でもナントカ国のナントカ流でも、
お遊戯児でも。



トリスタン・ツァラは曰く、
「もはや、ことばはごめんだ。」
彼の盟友ピカビアは曰く、
「わがピカビアよ、気取りなしに<生きよ>、
踊れ、電信で、鉄の歯の上を。」



すみません。もうやめますから許して下さい。
酒の切れ目がメールの切れ目。



祭りは集団ヒステリー、だという考え方もできます。
葬式も祝祭も戦争もテロリズムもそうだと、
超・モダニストは言うかもしれません。



 お祭りだからって、みんな愉快になると思ったらいけませんが、
 「愉快」にひねって行く意向はあるのでしょうね。



 このあたり、柳田国男だったら何か言っていそうです。



高知県が最下位を脱したよ。
「製品出荷額」で沖縄がビリになったので、めでたくブービーです。



ほんとにやめます、って。



ヨータンボ(酔うた坊、か?土佐弁で、酒を飲んでフラフラになっている
男の意)の酔狂に付き合っていただき、まことにありがとうさんです。



ここだけの話ですが、今日はドライブというものをしてきました。
・・・・・・・
いやー、やっぱり恥ずかしくて、これ以上とても書けません。
日を改めて、ということにします。