明けましておめでとうございます。



わたしの正月と言ったら、「歌会始」です。
 ウソですよ。漫才です。
 新年早々駄ぼら吹いちゃあいけません。



天皇陛下(愛称=天ちゃん)は、
 戦(いくさ)なき世を歩みきて思いいづ
 かの難(かた)き日を生きし人々



皇后さまは、
 風通ふあしたの小径(こみち)歩みゆく
 癒えざるも君清(すが)しくまして



いやー、なかなかいいんじゃないでしょうか。(^^!



朝鮮半島には、「泣き女」という(職業の)人がいます。
葬式に呼ばれて、皆を代表して泣いてくれるのです。
つまり、皆の哀しみを肩代わりしてくれるのです。



「歌の力」も同じです。
歌は共同(体)の夢や願望や悲しみ(の慰謝)でした。



僕の好きな歌の一つに「七里ヶ浜の哀歌」というのがあります。
寺山修司の『日本童謡集』(カッパブックス)では、
「真白き富士の嶺」になっておりました。



 真白き富士の根 緑の江の島
 仰ぎ見るも 今は涙
 帰らぬ十二の 雄々しきみたまに
 捧げまつる 胸と心
               (岩波文庫『日本唱歌集』より)



歌っていると涙が出そうになります。



ラジオの「小沢昭一的こころ}で彼が、
 かつては、少年らの死を国中で悼んでいたのだ。
 今はそんなことは、しやしない。
と言っていたのを思い出します。



死は個々の個体に必然的あるいは偶発的に訪れます。
昔は、それを共有したり共感したりする<共同層>を
ちゃんと持っていたのでしょうが、
現在は<古層>へと追いやられて、
ちょいとした発掘作業をしないと現れてこない、ってことかな。



天皇は、国民の繁栄と農作物の豊饒を祈願することを
自分の仕事としています。
「俺はそんなことを頼んだ覚えはない!」
と誰が言おうと言うまいと、自分でそう決めているのです。



「歌会始」の作品を初めて読んで、
「ほほう、相変わらずやっておるじゃないか」と思いました。
僕のようなド素人にでも、
相当の修練がされていることが見て取れます。



国民が不況の中、うんうん呻きながら生活をしていても、
天皇は歌一つひねり出すのにうんうん唸っている。
そういう存在が国民には必要なのだ、
と三島由紀夫は考えていました。
この部分は、三島の最も上質な「天皇論」と言えるでしょう。



余談ながら、永田和宏さんの、
 ゆつたりと風の歩みの見えながら
 岬に遠き風車がまはる
が、一番好きな作品でした。             2005.1.6