7910 無告の民らは、「大きな声」に従う。
声をなくしたカナリヤは、喪失した声を探している。



大きな・たっぷりとした潮流に身をゆだねたいのに、どこにもない。
新聞にもテレビにも床屋にも饒舌を極めるインターネット界にも、
表徴の破片(かけら)が散在するのを見るばかりである。



頼むべき「インテリ」は、もはや、いない。
彼らは「組織論」を持っている、はずなのに・・・。
いま、かれらは何処を彷徨(さまよ)っているのでしょうか。
ご同様です。やっぱり切片(かけら)のように。



言葉を(より多く)持っているのなんざ、
何の役にも立ちゃしません。
と、インテリさんも非インテリさんも思うようになっている。



いいのか?言葉よ。
言語論から言えば、言葉は、「あっ」とか「うっ」とか「いっ(痛っ!)」から始まった有節音化、つまりは「組織(論)」そのものではなかったか。
言葉を躊躇なく発することができる饒舌の世界では、
「あっ」「へっ」「ぺっ」などが発語されれば、いくらでも言葉の連鎖を繋げられるようになる。まさに言葉の極楽。
陰にこもる言葉の妙味がなんだか野暮の骨頂の如しである。



ワシは、「鬱」が大好きなんである。
これは単に個人の嗜好の問題なんであるが、
今日びは鬱病とみなされる可能性がある。
 前にも書いた通り、医者は病気を見付けたがり、治したがる
 という度し難い「職業病」の宿主であるからね。



「趣味? ウツを少々・・・」と言っておけばいいではないか。



「明るさは滅びの姿であろうか。人も国も暗いうちは滅びぬ。」
と太宰治は言った。



陰にこもらなくなった言葉に、何の面白さがあるんだ?
陰影のない言葉群が陰に照明を与えられるわけがない。
哲学も文学も政治も宗教も経済もその時点で昇天である。
おめでとう、である。



無告の民が気になる。
彼らをうっちゃった「有告の民」なんぞは、所詮本居宣長の言う「さかしら事」に過ぎない。彼らが「我が世の春」を謳歌していても連中の言葉に信を置く「無告の民」は、おらんじゃろう。
「無告の民」は、依然孤独。
彼らの無声を糾合したファシズムは遠く去ってしまった。
2.26事件の磯部浅一(ら)の有名なアジテーションがあるが、
メモが見つからないので、次のものを・・・。



 《 陛下 日本は天皇の独裁国であつてはなりません、重臣元老貴族の独裁国であるも断じて許しません、明治以後の日本は、天皇を政治的中心とした一君と万民との一体的立憲国であります、もつとワカリ易く申上げると、天皇を政治的中心とせる近代的民主国であります、左様であらねばならない国体でありますから、何人の独裁も許しません、然るに今の日本は何と言ふざまでありませうか、天皇を政治的中心とせる元老、重臣、貴族、軍閥、政党、財界の独裁の独裁国ではありませぬか、いやいや、よくよく観察するとこの特権階級の独裁政治は、天皇をさへないがしろにしてゐるのでありますぞ、天皇をローマ法王にして居りますぞ、ロボットにし奉つて彼等が自恣専断を思ふままに続けて居りますぞ 日本国の山々津々の民どもは、この独裁政治の下にあへいでゐるのでありますぞ
陛下 なぜもっと民を御らんになりませぬか、日本国民の九割は貧苦にしなびて、おこる元気もないのでありますぞ 》



2.26の青年将校の反乱に「義」がなかったと誰が言えます?
軍部が「義」をすりかえてしまったのだ。
「国民」も同じです。大きな声に擦り寄ったのです。



声の大きい者が勝ち、というこの世の定法が、俺は嫌いだ。



サイレント・マジョリティーがおしゃべりになったって意味はない。
言葉の課題は、この深海底であり、ダーク・マターである。
これを読み解くことが大事なのだ。
それを放棄し酒盛りをするのは「ことば」の恥だ!というのだ。
頼むよ。生きてるうちに。
(元をただせば所詮が)水呑み百姓の子孫らよ。



だいたい、世のインテリどもはだな、知的であるとか物を書いているなんてことは恥ずかしいことだ、という自覚がまるでない。
なんでそこまで自己肯定できるんじゃろ?
と不思議に思うほど、ない。
衆に優れて偉いことをやっていると勘違いしているのだ。



わしみたいに、酔ってクダを巻くぐらいが可愛くて罪がないのさ。



 言葉なんかおぼえるんじゃなかった
 日本語とほんのすこしの外国語をおぼえただけで
 ぼくはあなたの涙のなかに立ちどまる
 ぼくはきみの血のなかにたったひとりで帰ってくる
            (田村隆一)