ネットで見かけたニュースのメモを『メモ帳』に発見しました。
以下のものです。
長男転落死の西村議員が手記公表(原文のまま)
1月9日21時33分配信 産経新聞
西村真悟衆院議員(無所属)は9日、長男、林太郎さんの死亡を受けて手記を公表した。手記の全文は次の通り(原文のまま)
本日 私の長男林太郎(26才)は衆議院赤坂宿舎20階の私の室のベランダから転落し、12時07分に死亡が確認されました。
林太郎は今年より出版社に勤務しておりましたが、昨年末より、ウツ状態に陥り、昨日8日午後4時より、慶応病院精神科で受診し、強いウツ状態と医師より伝えられました。
私ども親も本人も入院するつもりで医師も入院が望ましいとの意見でした。
しかし、医師が問い合わせると病院に入院ベッドの空きがなく宿舎に引き上げ楽しく食事をして就寝した次第です。
本日朝、私は林太郎によく寝たかと声をかけ、午前9時30分に外出しました。
そして、午前10時27分に林太郎を慶応病院に連れていくために妻の携帯に電話した直前に本人が室からいなくなっている旨、訴えたので、驚いて、宿舎に戻り、自室ベランダから身を乗り出して下を見て横たわる林太郎の姿を認め、119番通報した次第です。
自室には妻と妹と林太郎がいました。妻が歯をみがくため30秒ほど目を離した間に、こつ然と林太郎の姿が室から消えていたという状態でした。
救急隊の必死の救命活動そして慶応病院の救命活動の後に、12時07分死亡が確認されて後私どもは、この突然の悲しみの中でなぜ、林太郎の転落を止められなかったのかと深く自責の念にかられながら今、林太郎は、ウツの苦しみから解放され、神に召されたのだと慰め合っています。
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なんの説明にもなっとらん!けれど、
息子の死に対してもくだくだしい説明をしたがる議員先生の習性が痛々しい。
息子は自分の人生を生きて、そして死んだ、
と言えばそれでよかったのだ。
でなければ、彼の死を<社会的>な課題として提供すべきだ。
献体、みたいに。
西村某議員なんてのは知らないが、
>ウツの苦しみから解放され、神に召されたのだと慰め合っています。
と聞けば、いやみを言うのもはばかれる。
逆に、鬱は国民的に対処すべき病いではないか、と思う。
戯画的に言うと、
ウツじゃないって?あんたそれは病気だよ、ってことになる。
昔は、鬱病というのはローマンチックな香りさえ発していたのに、
今ではそこらにある俗っぽい病いである。
「ちょっとウツでね」が洒落にならないのです。
漱石のウツは文学作品に昇華するけど、
現代の庶民のウツは自己解体のシナリオを用意するばかりです。
彼らの遺産(遺言)を読み解く人はいるんだろうか。
林太郎くんに手向ける思想をだれが持っているんだろうか。
だれもが、でもそんなの関係ない、と言うのだ。
死者は、孤独だ。
西村先生は鬱病撲滅のジャンヌ・ダルクになればいいのさ。
バブル時代の躁状態から現代の景気後退の鬱状態。
ちょうどいいバランスです。
これからは、景気指標などとは別の指標をどこかに用意すべきだ。
それが何なのか、おいら如きにはさっぱり分からぬが。
PHP研究所あたりが嘘八百の指標を提示してくれるかもしれん。
この出版社はデマゴギーの巣窟です。
気の持ちよう、としか、言ったことがない!
奴隷根性を涵養したいのか?
個人は社会化される、というのはヘーゲルやマルクスの明察の通りです。
<苦>を荷うのは個々人であるしかないのですが、
それはつまり、社会に還(かえ)すこともできるのです。
ヘーゲルやマルクスが革命的であったのは、そこなのです。
かつて神が荷ってくれた苦役(ゴルゴダのキリストのように)を、
生身の人間がどんと背負(しょ)い込み受けて立つのです。
うへー、「青年の主張」だわ。
気恥ずかしくなったので、後日の展開、としよう。
ここ数日風邪っぴき。
仕事を休むほどではない煮え切らない風邪です。
とっとと寝床に入り漱石の『こころ』を40年ぶりに読みましたぜ。
面白かった。さすが国民的作家です。