76年冬の蝶々 ---僕のクリティカ



 賀春 明けましてお目出とうございます。と云えば、目出たいか目出たくないか終わってしまうまで誰にも分かりゃしないんで、どこが目出たいのだコノヤロー、とからまれるかもしれない。そういう多恨なる75年を送られた方々、今年はエヘラエヘラ笑ってばかりいず、カラミ学をば少し研究いたしましょう。批判や怒り方にもテクニックは要るのです。修辞学を馬鹿にしてはいけません。本気にもポーズにも修辞によってどうとでもなる。スタイルの悪いケンカは負けたと同然であります。



 ブラッドベリの『何かが道をやってくる』の中に、「いい人間であることが、何か非情に困った問題にぶつかったときに、役に立つだろうか?」とある。お人好しというのはいるけれど、いい人間という顔は想像できない。困難にぶつかった時、彼がいい人間であるか否かは意味がない。モデルだって顔だけじゃダメなんだ、人間だって人が好いだけじゃダメなんだ、毒気を抜かれりゃおしまいである。
 Aという男が娘Bをコマして捨てた。男Cは義憤にかられAに談判した。Aは「結婚すりゃいいだろう」と居直った。この中で最も滑稽な役を演じたのは、むろんCである。義によって起つ?馬鹿を言え、色恋にあるのはヘドが出るほどのリアリズムであって、<義>の入る余地などあるものか。土足で踏み入るようなものだ。世の女権論者はヒューマニズムのポンチ絵をみせてくれる。Cに「君はロマンチストなんだねえ」と言ってやると、彼はほめられたと勘違いして嬉しがるだろう。漫画也。
 ヒューマニズムという立派な言葉はザアマス夫人の口から出る時にだけふさわしい。そんなんじゃなかったのだ、わが人間どもは。



 時々手紙の遣り取りをするSという友人がいる。言うことは支離滅裂、独断と偏見で役には立たないが、凄絶な色調を持っていて、読む者を一撃、黙らせてしまう迫力がある。ハッタリだろうが何だろうがそのような文章は少数の作家を除いて出遭ったことがない。文章の精髄である。
 太宰治という人は、人からほめられたくてしょうがなかった人のようだが、「人間は、いや、男は<おれはすぐれている><おれにはいいところあるんだ>などと思わずに、生きて行く事が出来ぬものか」とちゃんと書いている。卓抜な小説のコツと言うべきだろう。感傷というものを彼は好まなかったのだ。ザマアカンカン、バンザイです。



 小林秀雄は志賀直哉を敬愛しているが、太宰は、アマチュアだ少年文学だ、成金だと一刀両断にケナしている。太宰が芥川龍之介を買えば、小林は「三十面下げて道徳とは左側通行ということである、などと平気で書ける様なロマンチストは大嫌いだよ」と言い放つ。太宰は小林を「あの人には僕たちの書くものなんかわからないんじゃないか。・・・あの人には新しいものの見方や、センスっていうものがない・・・」(三枝康高『太宰治とその生』)と言っているし、小林は「太宰治の情死事件があり、新聞雑誌が異様に騒ぐので、僕は好奇心にかられて始めてこの人の作品を読み、大変面白く思い、惜しい才能が亡びたと思った」とそっ気なく書いている。小林が太宰について語ったのは、おそらくこの部分だけだろう。



 この二人は戦時中昭和18年の同年に源実朝について書いている。二つの才能のハチ合わせであり興味深い。どちらもいい出来だと思う。28年後、両名に深くかかずり合った吉本隆明もまた実朝論を出した。



 僕が以上の三名を愛好すると云っても、各人は各様の愛好する作家を挙げることができるから、こういうことには別に普遍的な意味はつけられない。誰某の個性がどうであろうと、それが普遍的な何事かでありうるか否かは自づと別である。批評の問題はここから始まる。なるほど、批評と云ってもおのれの好みを精緻に色づけしたにすぎないと云えば云える、が私的な範囲でしか意味を持たないものを自覚という疎外作用によって投げ出す処にしか批評というものは成り立たないのである。批評の敵は、それはお前の趣味の問題だというセリフであった。



 自覚的であること、たったそれだけのことが如何に破壊的なことであるか、右の三名は証明している。



 批評に憑かれると元も子もスッてしまう所に必ず行く。巷間に曰く、よせばよかった舌切り雀、ちょいと舐めたが身の因果。                                                       (1975年大晦日)



   ここがぼくの首都 1



 よく晴れていると、砧にあるそのビルの屋上から富士山が見えた。金網にもたれ富士山を見遣りながら彼女は<ねえ、富士山は世田谷区にあるんでしょ、電車で行けるよね、電車に乗れば・・・>と言った。深夜四畳半の下宿で一人うずくまっていると、彼女と共にその電車に乗ってしまいたくなる。それが気違いの真似であるか、フィードバックされない狂気であるか、紙一重の差でしかないような気がして、実にヤバイのである。ああ、この街は、気が狂うのを許容するのだ。



 田舎が嫌だったのではない。田舎は嫌いではなかったし、住めば都という諦観だか狡猾だか、水は器に従う心理もいくらかは納得できていた。気がつけば、吸い寄せられるように東京に来て、そのまま居すわってしまっていた。吸い寄せられたと言うにしろ、田舎を捨てたこと、田舎から捨てられたことと同義である。どのように表現されても、それは全くどうぜんだ。



 この国には、豊かな農村もなければ、豊かな都市もない。ちまちまとしてセコイかとおもえば、随分と間が抜けており、懸命に生きているのだと思えば、しみったれた狡知ばかりが目につく。神もいないし、余裕もない。高村光太郎に言わせれば根付の国であり、金子光晴に言わせればまるでミジンコである。わがヤポネは、ミミズの如き生命力を持つが、日に当たればただのたうち回るばかりである。



 こんな趣きのない原っぱに、日本全国から、ぞろぞろ人が押し寄せ、汗だくで押し合いへし合い、一寸の土地を争って一喜一憂し、互いに嫉視、反目して、雌は雄を呼び、雄は、ただ半狂乱で歩きまわる。(太宰治『東京八景』)これが僕の知っている東京を表現した文章の最も卓れたものだった。
 下町人情という。よくは分からないが、皆の言うほどのほのぼのしたとか気兼ねなくとかいう感じとは違うのではないかと思う。江戸のそれほど広くない土地に吹き溜まるように群れ集まった出自の知れない人々が押し合いへし合い、火事でも起きれば一切合財がパァという危機感と背中合わせの状況の中で、肩で押しのけるように自分の地所を確保してきたのである。下町根性とは、「隣の貧乏は鴨の味」という孤立が生んだ一種の図々しさの共同性ではないのか。



 人口は都市に集中する。人々は跡から跡から東京に流入している。絶対許容量が無限大であるかのように人口を吸収し、ぶくぶくと膨張して、当の人間をマッチ箱のようなアパートに押し詰める。どう考えてもこれは異常な光景である。東京は他と異なった空間の物理を持っているとしか思えない。
 風巻景次郎という国文学者によれば、万葉集の「皇(おおきみ)は神にしませば天雲の雷(いかづち)の上に廬(いほり)するかも」(巻三・235 柿本人麿)という和歌は、崇高さと宏大さを歌っているが、実際の「雷の丘」はちっぽけな小丘にすぎない、「万葉人が野といったり原といったり丘といったり山といったりしているものは、現実の問題として、実に実に小さい」のだそうである(『日本文学史の構想』)。都市や東京に、僕はこの和歌のアナロジーを感じてならない。農村あるいは<地方>から、都市あるいは<中央>を畏敬したり憧れたりする求心的な心性は、この宗教的・古代的な心性の投影のように思えるのである。
 ここに挙げた人麿の<和歌>は、日本のデスポット(天皇)の存在する処は(むしろ<天皇制>そのものが)、空間及び時間が歪曲しているかのように了解されていることを意味している。卑俗に言えば、イワシの頭だってそこには無限の意味と価値が内包されているといった了解の方法である。近代人がそれを迷蒙と言おうと、別の形に変形した迷蒙に支配されているかもしれないということを僕たちは忘れるべきではない。<中央>という言葉が人々に与える心情の小波は、それを伝統と呼ぼうが文化と呼ぼうが、古代から吹き寄せられる未開の風によって惹き起こされているのはおそらく確かである。
 都市には人口が集中しているだけではない。観念もまた集中しているのである。このことを看過すれば、とんだ「都市論」に陥る破目になる。
 ところで、だが、この未開的心性は、現代の生産関係によって新たな根拠づけがなされているから、事情は簡単ではない。    (1976.4.12)



   ここがぼくの首都 2



 「東京へ行くな、ふるさとを創れ」と谷川雁は言った。貧しい生活意識ではふるさとは創れないのだ、雁よ。農民は土地のミミズであることを甘受している、見えぬ目で土の存在を唐突に政治秩序の賜物と理解している。都市生活者は故郷喪失者であり、本質的にその日暮しの生活を危なっかしく渡り歩いている。土の中か、さもなくば、地面に足が届かないのだ。土の中の安定感は都市によって牽制されており、都市の不安感は「文明」(賃労働と資本)によって上げ底された足元に乗っかることであやうく糊塗される。この国では誰も彼も貧血症の生活しか営んでいない。けれど貧血症であれ多汗症であれ生活は生活だという同義反復に人々は自明のように繋がれている。彼らはブルジョアジーのようには秩序の独占を信じられていないかもしれないが、その上に乗っているという秩序の存在は信じられているかもしれない。
 ミミズにしろ、故郷喪失のクラゲにしろ、その秩序感覚に丁度うまい具合にすっぽり抱え込まれており、抵抗感の希薄な関係しか持っていないゆえ、何処まで後退しようと、またウルトラに行き過ぎようと全く自在なのである。まるで桶のふちを叩くとスーッと下に沈み、ほとぼりの冷めた頃そ知らぬ振りをして再び浮き上がる桶の中のボウフラの如き日本人である。その心象には輪郭の定かでない薄暮のような風景が古代から飴のように伸び拡がっている。



 アジア的な都市形成は、農民の土地からの分離--労働者を労働手段から分離して自由な労働力として樹立すること--という明確な形では成されなかった。農耕集落から祭儀権、政治権が独自に浮上し、その専制君主が農業生産に重要な用水路や交通手段の建設に当たるというアジア的な生産様式では、農耕従事者の定住地が集中することは都市の一義的な条件ではなく、都市は専制府の下における<共同労働>の<場>でありさえすればよかったのである。実際に<共同労働>を荷ったのは首長及びその近親か、下位共同体が貢納した人間であったが、<場>の境界は明確でなく、専制君主が諸共同体の上位統括体である限り個々の生産者はそのままその<場>に参与していたといえる。<公>と<私>は不分明で地続きであり、生産者は専制君主を頂点として放物線上に垂れ下がる<場>の何処かに位置していた。共同体間に戦争が起こった場合は頂点の方に収斂していき、君主の交代劇や政変などの場合には裾野の方へ分散して行けば<場>の意味は損なわれずに済んだ。政治様式がより専制的であるか、より穏健であるかは大した問題にならなかった。彼らはこの<場>からは決して自立しないが、行動様式はその故に自在であったと言うことが出来る。



 近代的な都市の形成過程はいわゆる資本の原始的蓄積過程と併行するが、以上のように必ずしも原蓄過程--商品市場形成と直接に対応する訳ではないということが想定しえるとすると、媒介項として、共同労働あるいは共同観念を担った部分の都市遊民化、そして本来的には無階級であった遊民の定着、世俗化が考えられねばならない。彼らが農村での食い詰め者であろうと、放浪する職人・芸人であろうと川原乞食であろうと、<聖>族からの落ちこぼれであろうと、それら出自の意味を無くした所で都市の描像は初めて完備されたのである。ここから現代の僕たちの見る都市まではほんの一歩であった。



 こんにち都会のペーブメントを気ぜわしく人たちの貌には、一様に必死にペダルを踏んでいないと倒れてしまう自転車操業の哀れな乗り手の影がある。むろんこれは生活という奴なのだから試しに止めてみるという訳にはいかない。何処へ進もうがとにかく当面は踏み続けなきゃならない。心情の起伏をこの生活の中へ溶かし込んで侘びしく生活の反復に耐えている。この情況を誰が何処へ導いてくれるのか、自民党か社会党か、経団連か総評か、文学者か都市計画者か。ノン、ノンという声が虚しく反響する中で人々は盲目的に生かされている。絶望することのできぬ絶望的な情況の中では、労働が人々を何処へ連れて行くのか誰も見定めることができない。人々は盲目のまま、ただ負けてはならじと走っている--自らの手で自分を支配秩序に塗り込めるために、都市の上にもっと貧しい都市を架けるために。



 夭折した二人の詩人を想い出す。富永太郎、「私には群集が絶対に必要であった。徐々に来る私の肉体の破壊を賭けても、必要以上の群集を喚び起こすことが必要であった。」彼の友人、中原中也は詩集『在りし日の歌』の後記に「さらば東京!おゝわが青春!」と書き遺して東京を去った。都市とは青春時代に速やかに過ぎ去るべき通過儀礼なのか。僕は首都に抜ける路地裏を歩きながら、都市が解体することを空想する。
                  (哄笑のうちに、幕)



 後記--「ここがぼくの首都」は一応今回をもって終了することにする。人々が自明のように思っている<都市>に対するコンプレックスを解体したかったのだが、もっと緻密な考察を要するようだ。ミヤコが人々の心的な搾取によって成り立っているのは古代から変わらない。人々は<都市>から自由にはなっていないのである。読者願う---一切の自明性を疑うことを。
              (1976.8.13)



《お気楽亭亭主あとがき、またはネタばらし》
以上は、知人=小川邦利氏のミニコミ紙「街角新聞」にホワイト・ブロッコリー名で書かれたものです。それをまた、1981年9月発行の『同行衆通信5号』に、ネタ切れのごまかしに再録しました。今回で3回目です。すでにカエルの面です。
もう一つあるはずですが、散逸しております。  



僕のユリイカ

 試みとしては悪くなかったが、腹が減ってしょうがなかったので、やたらタバコを吸っていたら、ひっくり返ってしまったのであった。気体というものが分子エネルギーの目覚めの状態であるのなら、目覚めとはさまようことにはかならない。どうやら僕の器官は自らが目覚めた存在を食えるほど高級にはできていないらしいのである。僕は裏返された手袋のように失神したのであった。


 バタイユならその瞬間に神を見るかもしれないが、間抜けな僕はノッペラボーの不快な夢を見た。僕の身体の各部位が風船のように膨張しながら、しかも重くのしかかってくるのであった。聞いた話だと宇宙は膨張しているというのが有力な説らしいけれど、僕の身体はまさしく宇宙大の空間に揺曳しているらしかった。悪食の罰だ。宇宙の膨張速度を越え、呻吟の果て宇宙の外にぽっかりと顔を出すなんてことを考えるものじゃない。

 シュレディンガーという人によれば、「宇宙のエントロピーが増加しているにもかかわらず、生物体は負のエントロピーを保つ」のだそうだ。生物体はいつでも雲散霧消の危機を抱えているから、負のエントロピーを食べ続け、ついでに「宇宙の無限の暗黒が私を恐怖せしめる」(パスカル)てなことも言ってみる。生物体はある種の反(抗)宇宙なのだ。だから、拡がりというのは人間にとって不気味なものなのだ。


 翻って、例の三匹の猿たち、見るもんか、聞くもんか、まして喋りはしないという全方位的な退縮理念者、ここにも(中庸を欠いた)反宇宙体がいる。世界からいっさんに撤退することをもって己れの存在とするもの。敗北に敗北を、後退に後退を重ね、しかも存在を手放さないもの。最終的には、意味のある最小の単位としての粒子にまで退縮し、互いに平衡し、かつまぎれる。彼らが宇宙の覇者となることによって宇宙は焉む。


 見まい、聞くまい、語るまいという彼らの夢はなんだろう。知人K君は「ヘレン・ケラーの夢」として接近を試みたが、失敗に終わった。そのような世界へは、往くことはできるが還ることができない(ブラックホールみたいなものだ)というのが彼の結論だった。「つまり、記述法を無くすんだね」と僕は言った。「そうだ。埴谷雄高氏考案の《存在の電話箱》の完成が俟たれる所以だね。あれは反重力子情報系をうまく組み込んだ装置だろうな」と彼は笑った。三匹の猿――トポロジカルな反転を夢見るものら。


 夢では時間性が空間性に転位されるという。ならば膨張する身体は膨張する観念であったか。観念は何を食ってふくらむか。お腹が大きくなりゃ子供ができる。だけど、観念が大きくなっても何を産めばいいのだろう。おおかた、月足らずのててなし子だろう。オロシャ国の偉大なリアリスト、ドストエフスキーは、「意識とは病いである」とほざきおった。爾来この病いは資本主義の蒼き馬に乗って黒死病の如く世界を蔽ったのであった。わが小林秀雄に至っては、「君が病者であることがわかったのなら、病者の特権だけを信じたまえ」と。


 僕は天文学者になりたかったのだ。拡散、肥大する僕の内質は茫漠たる空間に満たされることになるか、この空間が自分であるか、それとも、その中でかすかなノイズを発振している粒子が自分であるか、僕の夢は何も明らかにしてくれなかった。夢の主人は、人間は広場恐怖と閉所恐怖の間のグラデーションだとでも言えば気がすんだかもしれないが、絶対性の欠け落ちた(特権の行使されぬゼスチュアの如き)すれからした概念でくくりたくはない気がする。数式のようなよく締まった分類法がどこかにあるのではないかという気がしている。


 僕はメタファーを蹴散らすためだったら何だってやるつもりだ。うぅ蒼とした神経叢にくぐもる声ばかり気を取られるより、天体望遠鏡を覗き込んで、世界を自在に反転することのできる方程式を夢想する。僕の天文学ではそのような大弁証法はあみ出せなかったが、だが、「お前の屁は臭いじゃないか」といった類いの批判(厭味)を粉砕するぐらいの小才は身につけた。それというのも、暗箱の中から無作為に採り出した粒子がノッペラボーに見えてギクリとしたからであった。そいつは「当たり障りのないことだけ言って、あるいはやって、あとはビクビクしている、という訳にはいかないのだ」と言うのであった。小林秀雄が、あるいは太宰治が、そして吉本隆明が(そして西洋実存主義者らが)ディス・コミュニケーションの概念を提示して以来、僕らのメッセージはついに神への手紙である筈だったが、祈るべき神がまた存在しない以上、役に立たない空手形を濫発するか、丘の上に寝そべって洪水を待つか、公然たる道はまずこの二つにかぎられていた。夢見ることはお気に召すまま、感情の錯乱も誤算も衰弱も解体も僕らの手の内にあった。


 僕は失神から覚めたのであった。覚醒は強引に僕の向こう脛をひっかいて、僕を時間の粘液でくるんでしまったのであった。昼下がりのあらゆる傾斜地にはセピア色の不吉な突起が生え、いらくさの陰には狡猾だが不運な皮膚を持つ針鼠が棲んでいるのであった。五月晴れ干すものもなく高架線。さて、では、何食わぬ顔で一服。あとは諸君らの演(だ)し物でせいぜい愉しませてもらおうじゃないか。
    (「同行衆通信」6号 1982年 実は初出「街角新聞」1974?)