古ぼけた神社や寺を見ると、写真を撮りたくなります。
神社仏閣が趣味という訳ではありません。
古ぼけた民家や廃屋も好みです。
どうやら、霊(や観念)が集合し、
澱んで溜まっている所に惹かれるようです。
廃屋になりすぎて、霊の痕跡がすっ飛んでしまったらだめです。
霊にも体温がありますから。
おきのように残るかすかな体温、
放って置いたら、いずれ消え果てしまう、
ここんとこを感知するのが、霊能者の勝負所、でしょう。
写真は、霊媒師なのではないか、と思ったりします。
遺影はイタコの代理じゃないか、
「ご真影」は天皇制の出張サービスだろうし、
卒業写真も恋人の写真も結婚写真も、
冷凍保存された霊の住処のようです。
「墓場」と極論してもいいかもしれない。
そこまで言ってしまえば、
風景写真から「雪の結晶」やトマソン写真まで
あらゆる写真が、撮った者の霊を埋めたものと言うことが出来る。
イメージの保存は呪術師や画家の仕事でした。
今は、写真師も参画しています。
かつてそこに在った時間の<徴(しるし)>を
異能者が繋いでいった。
ここらあたりも、霊を埋め・鎮める「墓」と似ています。
スーザン・ソンタグは、
「写真はすべて死を連想(メメントモリ)させるものである。」
と言っていました。 晶文社『写真論』
どんな写真でも、ですから、撮った者と見る者との交霊なのです。
写真を見るという行為は、交霊の現場なんだよ。
風景写真、例えば富士山の写真があるとします。
あなたは、富士山に行かなくても毎日拝める、ありがいこっちゃ、
と思います。けれども、あなたが見ているのは、
写真家の眼(の精神)なのです。
富士山を見ていると感じさせるのが、写真家の「たくらみ」なのだ。
赤の他人の写真家の眼に感応して富士を「霊視」しているのです。
少なくとも、「この富士山を見ろ!」というカメラマンの魂をね。
レンズや印画紙にスピリッツはないですから。
いかように写っていても、それはシャッターを切った人の意志です。
その意志を感受できなければ、つまらないことになります。
写真の<霊威>、を考えざるをえません。
m(-,-!m すみません。
トランス状態で口から出まかせ書いていたら、
いつの間にか「神懸かり」になっております。
カメラ産業が栄え、世界中に(宇宙にまで)カメラ
(つまり、人間の<義眼>)がばらまかれ、
まるで俗っぽいものになっているはずでありながら、
いまだになお写真に力を与えているのは、
「神話作用」(ロラン・バルト)によるエネルギー供給ではないかと
わたくし、うつらうつら考えております。
まあ、どーでもいいようなものですけど、
メルロ・ポンティあたりにしてもらいたかったね。
余談ながら、この1月に見た県立美術館の「エルスケン写真展」は
たいしたことなかった。けれど、もっと面白い写真展はありそうだ
と思わせてくれたとこが、良かった、YO。
まだまだ言えそうです。
さあ、パート3はあるか?
挿し絵として1枚添付したいところですが、
うちとこはテキスト文書用と画像用と、機械を別にしてありまして、
別便で送らせていただきます。気が向いたら。
ハードディスクに残がないWindows95機(色数も少ない!)で、
しかもダイアルアップ接続の低速回線は、辛いっす。
そこんとこ、ご理解をたまわりたく存じます。 2005.3.14