秋きぬとめにはさやかに見えねども風のをとにぞおどろかれぬる
古今和歌集巻四藤原敏行朝臣
秋は、昔からこんな風に訪れたんだねえ。
「別段、秀歌とも思えない」と言うどくれ者もいましょうが、
いやいや、小賢しいことは、言いっこなしです。
「その通り!」、ですよねえ。
夏の風とは、(いきなり)違ってきました。
秋の風におどろかない人は、まず、いません。
季節のページをめくるのは、人為の及ばぬ天然自然かも知れないが、
その新しいページを読むのは、わたしらである!との覚悟の歌です。
もう秋か。それにしても、何故に、永遠の太陽を惜しむのか、
俺たちはきよらかな光の発見に心ざす身ではないのか、
---季箇の上に死滅する人々からは遠く離れて。
とランボーは書きました。(小林秀雄訳『地獄の季節』)
藤原某(ら〉は、悠々として季節の上に死んだ。
ちゃんと季節を読んだ上に死んだのです。
どこに過不足があるんでしょうか?
モダン・ランボーにしてみれば、
こんな「過不足なし」こそクソクラエだったのでしょう。
「きよらかな光」もクソもあるか。
ぼくらの先祖たちは、従容として季節の上に死んでいったのだ。
僕の父も母も、叔父さんたち・叔母さんたちも。
彼らが、「きよらかな光」の発見を心ざしていなかったと、
誰が言えよう。
続きは次のお彼岸まで。
命あらば。
今日は、草刈り機で情け容赦なく草を刈り倒しましたが、
彼岸花は、さすがに切れなかったです。
昔はそこらのあぜ道にずらりと咲き誇っていたっけが。
彼岸花・蔓珠沙華、
僕らの小さいときは、「し-れ-」と言っていました。
「死霊」だったのでしょうか。 2005・9・27