そんなことをしておると、罰(ばち)が当たるぞ、
と、おふくろさんによく言われました、でしょ?



おもちゃ、本、教科書、茶碗、自転車から、生き物まで、
粗末にすると叱られました、でしょ?



幼年期、
セミやトンボ、カエルをなぶり殺し
(じゃないよ、おもちゃにしていただけだよー)、
積み木や砂場遊びで「破壊」するよろこびったら、ないです。
なんであれ、形あるものを破壊するのは、
幼年期の特権である、と認めて貰いたいものです。



じゃ、少年期は?
誰でもトンボやカエルをいじめたから、あまり責められません。
権利取得の争奪戦期でもありました。
いたいけない同輩をいじめた方もおありでしょう。



じゃ、青年期は?
「反抗期」も含まれるから、致し方ありません。
世間の掟やしきたり、既成秩序が分からない、
と言うか、分からなくてもいい(特権的)時期な訳で、
自分の作った「正義」が主要なテーマになります。
これも、まあ、致し方ない、と言えるでしょう。



じゃ、成年期は?
一人の(社会的)人間として自立するこの時期こそ、
実は、社会的軋轢に対する破壊衝動が最も旺盛になるんですな。
彼らがもっともよく破壊し・構築する、とも言えるでしょう。



じゃ、中年期は?
角が取れて丸くなる?
♪いえいえ、そうではありません。
破壊と建築の欲動が減衰することと禁止されることが、
同時にやって来ることによって、収拾が不可能な混乱がおきる。
思春期以上に、ホントは、何が何だか分からない時期です。
後ろから押されて前へ行くのに、押す(赤の他人の)顔も見えない、
そんな按配です。
「押すなよ!」ちょっと止まっていたい、と彼は思います。
で、結局、抑鬱状態のまま、押され続けます。
まっすぐな「破壊」を禁じられたままね。
 殺人事件に2つピークがあるとすれば、その1つはこの時期だ。



じゃ、老年期は?
死への命数を数えるようなゆとりあるヤツも、
今の日本や若者はどーなっとるんぢゃ~、と怒りまくっているヤツ
も、思い出をスルメみたいに噛みしめているヤツも、
幸せ者である。
「破壊」も「建設」も(他者から禁止されている訳ではないが)
塀の向こう、という感じがしてならない。
助走力がへたっている感じに包囲されている。
つまり、圧縮されていることから逃れがたい。
この囲饒地感が、老年期の「不快」だ。
ということは、「不快」を破壊する欲動もあるわけだ。
 そういえば、高知のお年寄りはよく人殺しをしますね。



以上、私製の全くいい加減な発達心理学(?)でした。
なんだ、結局、忌まわしい破壊の衝動から逃れられないのか。
そうです。死ぬまでね。
(その最後の対象は、生体としての自分自身です。
自殺ではありません、プログラムされた自己消滅の自然過程です。)



馬鹿と破壊欲は、死ななきゃなおらない。
その辺まで含んだ上で、「仏道」ちゅうものを考えないとな、
皆の衆。



前振りが長くなりましたけれど、
で、やっと、野村さんほか数名との約束が果たせます。



探していた石川啄木の短歌が見つかりました。



 あやまちて茶碗をこはし、
 物をこはす気持ちのよさを、
 今朝も思へる。



「つまらん」って?
ま、たしかに、秀歌と言うにはねえ。



折口信夫は、啄木を、
「世間で言うほどの、思想なんてものは、ない」と、
どこかで書いてました。



そうでしょうか?



そりゃ確かに、「丈高き」とか、侘びとかさびとか、
余情とか恋とか、それまで不可欠とされていた要素を啄木はテーマ
として採用しなかったようにも見える。
でもね、それまで「歌」にはなりえなかった片々たる生活の一角を、
ポエジーになるはずもなかった身辺雑事、「俗事」を、
歌の対象にしてしまったのは、革命的だったんですよ。



なんとかかんとか秋の夕暮れ、とか言っておけばカタチになってい
たのだ。それまでは。



それをだね、
 よごれたる手を洗ひし時の
 かすかなる満足が
 今日の満足なりき
ときたらねー、
和歌の歴史をぶち壊しだ、てえの。



啄木は弁解しています。
 「我々の要求する詩は、
 現在の日本に生活し、現在の日本語を用い、
 現在の日本を了解しているところの日本人に依って
 歌われた詩でなければならぬ」(『食うべき詩』)



弁解どころじゃない。戦闘宣言です。
茶碗を壊すも、和歌の歴史を壊すも、同じだ、
と、彼は言いたかったのかもしれない。



薄汚れた生活実感でも、詩になるのです。
「なるはずはない!」
いいえ、なるんです、ってば。



考えてみれば、万葉集でもそんな歌はありました。



 億良らは今はまからむ子哭くらむ
 それその母も吾(わ)を待つらむぞ
 【自分、もう帰ります。子供も泣いているだろうし、
 かあちゃんもオイラの帰りを待っているだろうからね。
 この酒宴はとてもご機嫌なんだけどね、もう帰ります】
などの歌の直系であるとも言えます。
お芸術に執心する歌人らが、
そのような「俗」を追放したんじゃないでしょうか。



詩は、基本的には、「俗」から弾け飛ぶエネルギーに拠ります。
ですから、そのエネルギーを吸引できなくなったら、
別のヴァージョンを生むほかない、ってことです。



短歌も面白いかな、という気がしてきました。
上の兄なんか、若い頃、日記のように書いておりました。
ぼくなぞ、今からやろうと思っても、
素養というものがまったくありませんものね。



俵万智の『サラダ記念日』が短歌人口を増やしたように、
啄木も同じような効果を当時もたらしたはずです。



紀貫之は、「人と生まれて歌わざるは、なし」と言いました。
どんな歌の形式であれ、みんなそれぞれの歌を持っている訳だ。



ですからね、
だいじょうぶ、
あなたの歌を歌いなさい。            2004.8.19