迷宮私説       亀井戸亀吉
  ・・・・・・・・・・今はなき幻の現代詩研究会のメンバーの各位へ



 前註
 二転三転して自分でカット、スット、パットをすることになった。もともとそのつもりだったのだが、自分の生活上の不如意と、ある「やりきれなさ」のためにずるずるとへたりこんでしまい、言挙げするというほどの気力もなく、またそういう機会をこちらから逃げてゆくというあんばいで、頭の中に埃のかぶるままにしておいた。もとよりこれは自分のための呟きのようなものだったとおもう。
 文章にする機会を与えてくれたのは新聞会を再建しようとする二、三の友人たちである。僕も悪扇動が嫌いな方ではないので原稿依頼を引き受けそのつもりで書いてしまったのだけれど、どうも新聞発行の資金繰りがうまくいかないらしく当分出せそうもない。で、自前でムスケルを敢行することにした。
 前もって言っておくが、もったいをつけるほどのたいした事を考えていたわけではない。むしろ僕は何かというと予言者めいたことを言いたがるインテリの習性からなるべく遠ざかることを願っていたのかもしれない。自分を支えていると信じた思想や信仰がそんなに確実なものでも堅固なものでもなく、まるっきり危なげな代物であると言えば言えるじゃないか。この疑問で自分の観念の建築物は根もとから脅かされていた。それは今も変わらない。この文案の成立は72年だが、今もって観念は飽きあきするようなどうどう巡りである。だからこの中から卓見の類いを探そうとしても無駄だろう。目新しいものはないかとか、へんな推理(かんぐり)を働かせることなく静かにつき合ってもらいたいとだけ願う。この中に気負いのようなものがあるとすれば、自分の想定した読者が現実に存在し、その人たちと何処かで繋がっていると信じていることによっている。
 もしかして詩に関心のない人、政治や学生運動に関心のない人たちには理解できないと早トチリされるかもしれないが、僕(たち)の体験の端くれや語彙の切れっぱしに躓くことさえ免れれば必ず理解できると信じる。僕は個別の体験に固執して書き進めようと努めたが、この個別性は断じて特殊的ではないと思うからである。



 各位へ
 僕たちが全共闘詩集と銘うった「乱々狂詩曲」を出したのは70年の11月だったからもう4年を経た訳である。あれから僕たちは1冊の詩集も編んでいない。なるほどあれは同人誌を目指すものではなかったし、詩を書くという行為の個人性の方に還っていったのだろう。が、これでは話が分かりすぎる。彼らのその後の消息は知らないが、彼らが多くの文学青年のように詩を書くことをやめたにしてもそれには理由があるだろう。詩自体は別に大層なことではないのだから書き始めるに理由はいらないが、手放す場合には何らかの現実からの強制があるはずだ。
 実は僕はここで詩のありようについて僕の貧しいうんちくを傾けようとは思っていない。僕がここでやっておきたいのは、かつて詩によって内部にわだかまる何ものかが救済されうると信じたことがあるのに、その信じる根拠さえ封殺されて口ごもってゆく無数の文学青年(政治青年でもいい)の恨みを少しばかりでも晴らしておくことである。死んでも死に切れないというのはどこにでもある。もし、彼らがもう一度詩を書こうと決意するとき、彼らが抱え込まざるを得なかったものは強い抵抗として現れる他ないことは確かなのだ。その抵抗をうっちゃった詩あるいは思想は僕たちにとってたいした価値はないこともまた確かである。
 僕たちが現在感じているあらゆる言葉に対する強い抵抗は(こう考えている観念自体が言葉によって構成されているにも拘わらず)どうしようもない力を持っているいるようにおもう。その力の前で沈黙してゆくことを己れの思想とすることもできるが、その道を拒否する場合には沈黙を強制する理由を知らねばならない。どの穴から探りを入れることも可能だろうが、僕は僕たちが親しくつき合ってきた駒澤大学の闘争史から入っていきたい。むろん徒労におわるかもしれないことは承知している。何を得られるのかもあらかじめ約束されていない。
         *  *  *
 各位は、あの71年から72年にかけての学費・処分闘争を想い起こすとき、明確な輪郭を伴わないことを苛立たしく思うだろう。闘いを風景のようにやり過ごしたのでないとすると、それは記憶がピックアップすることのできないほど骨がらみになっているためだ。僕たちは老人のようにはなごやかに思い出を語ることができない。そのような平安を自分に許していないのである。言い換えれば自分の体験が始末できていないのである、自分の体験と和解できていないのである。僕たちは絶えず過去から脅迫されているが、その正体ははっきりと姿を現さない。不明のもののみが僕たちを脅迫する。僕たちはこの闘いで何をやってしまったのか。
 われわれは定石どおり学生大会を開き、定石どおりスト権を取り、定石どおり団交を要求し定石どおり蹴られ、定石どおりストライキをザルながら決行した。活動家諸氏はほぼ一様に「この戦術をとってもそれが何かの足しになるのかと言えば九分九厘その見込みはないが、あれがだめだとするとこちらだ」というふうに考えていた。思想的な全重量を賭けて選択の余地なくその行動をとったというより、何かの行為をとらない限り何も拓けない、あるいは行為として現象させなければ闘わないままに腐敗するぞという強迫があった。これをやらなきゃもう敗北なのだというせっぱつまったものでもなく、さりとて余裕のある闘いでもなかった。僕たちは必死にあがいていた。この苛立たしい中途半端さのために、われわれは学生大衆一般に存在する反「学費値上げ・処分」の理念に乗って全学バリケード封鎖に突入することができなかった。これは逆でもあるだろう。そのような亡霊のような理念に拠ってはわれわれは何ごとも為すことができなかったのだ。僕たちは能う限りの激しい闘いを展開したが、教場封鎖の闘いに対して学生大衆は権力(の構造)とべったり癒着した顔をしてわれわれの前に立ち塞がった。そのような権力の存在の構造とそれに貼り付いて存在する学生大衆とのからみの前でわれわれは両者を切り裂くとば口を探しあぐねていた。
 当局は学生との窓口をすべて閉鎖することによって膠着戦に持ち込みわれわれの自壊を待った。72年の新年度に入って学費値上げは実体化され当局は依然として逃げの一手であり、われわれの「自明性によってすでに傷ついている」とでも言いたげな奇妙に枯れたエネルギーはしだいにおのおのの内部に粘着していった。われわれは当局官僚の白痴的な収拾策動によるのではない、別の内的な理由によって自壊していったようにおもう。あるいはそう観念することによってしか僕たちの体験の意味は浮かび上がってこない。
 手っとり早く、われわれの出した議案書を見てみることにする。左翼の慣用語句を連ねた「情勢分析」に挟まれたその方針案には誰が読んでも「自然発生的な個別的な団結の個々的なエネルギーを自らが媒介したものとして確定し、生きて展開する個別を結合し、協同の中で普遍へと形成する」といった具合の文句しか見つけることができないだろう。もって回った言い回しの挙句が、要するに「個別を普遍に結合せよ」と言っているにすぎないのである。何の意味があったのか。虚言を吐いているのではない、こうとしか言いようがないのだとしてもやはり本当の処はそこから少しずれていた。このことは活動家の現場での感覚に照らしてみれば明らかである。僕たちの暗礁----内部にあった空洞の上をこのような台詞は素通りしたのではないか。われわれの「方針」は未来を明るく指し示し得たものではなかったことを闘いを荷った一人として僕は残念に思う。むろん、闘いの前進も後退も「議案書」なるものに依っているのではない。問題はやはりこの空洞の意味であった。
 この空洞は駒澤大学闘争の観念の敗北史、日本の左翼の死語の歴史を食った空虚で満たされていた。とりも直さず観念の敗北史は現実の闘いの敗北史である。そのいちいちを取り挙げるのは煩雑に堪えない。この空虚は、逆でも然りだが、デモでもだめだ、ストライキもバリケードもだめだ、銃撃戦もだめだ、論争もだめだという後退意識を導いた。ある行為がそれに対応する行為圏の拡大を直接にもたらすことはますますなくなった。行政権力の肥大化、以上に社会秩序の強固な定着の前であらゆる行為の突出は封殺されていった。行為は行為によって叩き潰すことができるというのは権力の常道であろう。行為の敗北は観念を産む。観念は敗北の現実を映さねばならない。観念の観念と現実に対する敗北を回避するために。
 次のような情況を想像してみれば、僕たちの現在の思想劇に近いものが得られるとおもう。残念ながらそれは天下国家を論ずる檜舞台とは遥かに遠い所で今は演じられている。
 共にスクラムを組んだAとBがいる。ある時から互いに「わからなさ」を感じ始めて討論をする。討論は論争へと登りつめるが、それは両者の了解の不能を顕わにしていっただけだ。Aが譲れない部分を持っていると同時に、Bも絶対に譲れない部分を持っている。批判はすることもできるが、どうしてもその矢が刺さらない批判不能の殻があるように思えてくる。それがたんなる迷蒙であれば啓蒙で片をつけることもできる。だがもしそういったものでないとしたら? そして結局コミュニケーションは断念され、両方ともおのおのの領域に空しく引き上げざるを得ない。別れ際に舌を出したり、あるいは口で言うより手の方が早いの伝で殴り飛ばしたりして。その帰途で今自分が帰ろうとしている処が最初から問題になっていたのだと気づく。つまり論理の内容ではなく、論理の出自そのものが。
 そういう状態の時に共同を強いられた場合(共同はいつだって強いられているのだ)、成員は共同性の持つ求心作用の中で、ありったけのものを動員して他とつば迫り合いをしながら本当の共同性を試みなければならないという、外部から見えない修羅場に入ることになる。明るく肯定的に語られていた「共同性」が、その時血を血で洗う陰惨な地獄に見えてくる。結合の糸が信じられねばアカンベーするか、観念の中で相手を殺しておいて共同を保つしかなかろう。
 そのように、人間がぎりぎりに切りつめられた時、最後に残されたもの、土壇場でそれによってやっと踏み堪えているもの、つまりそれが取り去られば一人の人間としての輪郭が崩れるといったもの、それは何だろうか。「本能」というのが陳腐なら、資質や個性と呼ばれるものだと答えるのが一般に容易であり、確かにそうにはちがいなかろうからそうしておく。互いを隔てているどうしようもない壁が個人の資質や個性というものであれば、それは共同性にとって暴力的である。この壁は本人を殺しでもしない限り消滅しないではないか。
 僕たちは72年1月に連合赤軍派の「リンチ殺人事件」を知らされた。当時、彼らの一連の行動、事件に関して僕たちはおよそ頓馬なことしか語れなかった。「同志殺し」を僕たちが理解するには学費・処分闘争をまともにひき被る経験が必要だった。ジャーナリズムの赤軍狂いが醒める頃、その意味はやっと僕らの内部からじわじわとしみ出してきた。「同志殺し」の無残さに較べて、何とか作戦とやらもハイジャックも銃撃戦もみな前座の御愛嬌に等しかった。僕たちには、彼らが「同志殺し」をもって、これが全ての左翼、いな、全ての「共同性」に与える俺たちの総括だとほくそ笑んでいるように思えた。彼らに与えた僕たちの暢気な批判はみごとにうっちゃられてしまった。自分だけは安全だと思っている君たちもいずれこうなるのだ、現に君たちの影ではそれが実行されているじゃないか、また、殺すのも殺されるのも嫌だと言って部屋のドアを内側からしっかりとおさえていることもできるが、それが如何ほどの違いであるか、と。
 その通りであった。言わなくてもいいことだが、×事件を契機にしてわれわれの共同性指向の脆弱性は一挙に露呈されたのである。われわれはスクラムの隣の多寡の知れた何れ劣らぬヘッポコイデオローグたる同志が何を考え、何に衝迫されているのかもわからなくなってしまった。
         *  *  *
 一つの敗北のしかたを述べてみよう。
 69年の80日間のバリケードストライキは機動隊の導入によって敗北し、全共闘はロックアウトの外に追放された。国家権力の発動ごときでは思想は敗北しないから、この追放そのものによっては傷つくことはなかった。機動隊が導入されれば学内から放逐されることも、学園が決してエデンの楽園ではないことも既に了解ずみだ。そのくらいのふてぶてしさは日頃キタエておる。全共闘は某所に亡命政権を構え果敢にロックアウト粉砕闘争を展開した。通行証を提示して学内に入り、中からロックアウトを破れという意見に対しては、追放された全共闘は追放されたものとして闘うしかない、通行証提示などは二重の敗北だと答えて消耗戦を闘うが、この路線は中途挫折し学内に入ることに転換された。何に敗北して転換したのかというと、学生という存在のしかたを切り棄てることができなかった、その存在にである。こういう時に活動家は敗北を舐める。かつて自ら通行証提示を拒否し、大衆に共に闘うことを訴えた闘いが自らの思想によって起こされた必然であるなら、今こうしてカバンをぶら下げて検問をくぐり、おめおめと教場に向かう自分とは何だ。彼らは思想の倫理の前で強い屈辱感と敗北感を味わったはずだ。思想というものがこういったものであったら自分は思想というものを一切信用できないと感じたに違いない。その時にはさして問題にならなくとも思想が過去に対する意味付与として働く際には強いひっかかりとして作用するはずである。
 もし、活動家たちが「誰がこんな大学にいてやるものか、いつでも辞めてやる」あるいは「駒澤大学なぞぶっつぶしてしまえ」ということを共通の前提としていない場合で、学生という社会的定在、あるいは、どこへ行っても地獄であるからここでやる、ということを逃れられないとき、学生活動家というものがそういうものであるとしたら、そのことは己れの思想の中に強固な抵抗として把えられていなければならない。もっと普遍的に言うとすれば、「政治なんかには興味はないよ、自分が食っていくだけで俺は手一杯だよ」「俺がここでクビにでもなれば一家四人が路頭に迷う」といった例では政治運動のようなものは自分の生活にとって二義的なものとして把えられているが、これは不当なことだろうか。そうではなかろう。つまり、ここでは自分ないし家族の生存がどんなにかつかつに侵され切りつめられても最後に残されねばならない最後の防衛線になっているわけである。早い話、「闘争」とか(あるいは文学とか)というものは、極言すればいつでも生活のためにやめられる領域に属しているのである。それは、いけないとか転向だとか呼びうるものではなく人間の実際である。生活を捨てよ、妻を捨てよと言いうる闘争には僕たちはまだ出遇っていないし、そのような思想は掴めていない。
 どんなに切りつめられても最後に残るもの、どのような社会になろうと存続する人間の原基的形態、性や家族や労働や衣・食・住、これを人間の「自然性」と呼ぶならば、思想とはこの自然を胸一杯に呼吸したものでなければ終に普遍的な「常識」とはなりえず、その生命をまっとうし死滅することができない。誤解してはならないが思想は死滅することをもって幸福なのである。
 観念は自らの増殖作用で世界の果てに行くことも、とんでもない妄想をでも創り上げることもできるが、観念は腹の足しにはならない。従って観念にとって現実の生活は壁である。壁は絶えず観念を脅かす。観念の方は生活やなりわいなんぞどこにでも消えてしまえと言い、現実の生活の方は観念など犬にでも食われろと強いる。存在も観念も互いに魔性の如くふるまう。この背反を拒否しえるようなりっぱさは現実の世界にはない。それ故観念が一人の人間の現実性、つまり個性になりうるためには、どうしても現実の存在に敗北するという契機を媒介せねばならない。例えばマルクスならこう言う。



 (一段下ゲ)
われわれは、共産主義的思想の実践的な試みではなく、その理論的な論述こそ、本来の危険をなすことを、かたく確信している。なぜなら、実践的な試みにたいしては、たとえばそれが大量的な試みにせよ、それが危険になりしだい、大砲でこたえることができるからである。ところが、われわれの知性を征服し、われわれの良心をしばりつけられた思想は、自分の心臓をひきさかないかぎり、むしりとることのできない鎖である。それは、人間がそれに屈服することによってはじめて征服することのできる魔物である。



 このマルクスの言葉は極めて常識的であって誤解の余地はない。人間は外界との一次的な対応によって疎外態たる自己の情熱を克服することができなければ二次的な次元で、つまり幻想を疎外することによって疎外の止揚に向かう。資本主義の分業体制は一個のアンサンブルである人間を各機能に分離し畸形的に発展せしめることによって生産力の高度な発展をもたらしたが、それは意識が現に存在しているそのものをそれ以外のものと意識しえるという、対応を失った意識の分立の容認であった。即ち、情熱を失った意識でもその形骸があることだけで存在を保障され、存在は力学的な(上にあるものがたんに下に転がるような)力を所持するのである。蚤の金玉の有無が人生の一大事であることもありうる所以だが、残念なことに人間はこの研究者の如く呑気な場所ばかりに存在してはいない。僕たちには先のマルクスの言葉を常識と受け取ることのできるほどの存在感はあるし、相応の知性を持っている。「心臓」は俗世間の巷をあっちこっちから小突かれ右往左往していて、その受苦は思想として投げ出されるのであるという知性ぐらいはだが。
 とすれば、受苦の終わるところ思想もまた終わるというべきである。自然からの疎外は人間の条件であるとしても、人類史が自ら創り出した社会的な諸制度から受ける苦痛から人間が解放されないかぎり至る所での様々な形の戦闘は存続するのである。これを逆倒させてはならない。マルクスにとって「鎖」とは思想の受肉を意味したように、思想はどのように世界の果てに行こうとも最終的には鎖の一端である人間の生身の自然性(=普遍性)に還帰してくるという契機を常に保有していなくてはならないのだ。それは思想にとってあまり愉快なことではないが、思想が無力であることから逃れるただ一つの道である。大砲一発でふっ飛ばされて「大衆は決起しない」とか「もっと大衆に学び」とか泣き言を垂れる無残さに較べて、思想の細い道を自ら拓いていく作業は遥かに価値がある。
 ついでに言っておけば、かつて僕たちが職業革命家というものを原理的に否定したのは、実は今言った、人間は政治の中や文学の中で生きている訳ではなく、やはり社会の権力構造の中で働いて、子供を育て老いて死ぬというふうにしか生きられないのだから、そういう生に耐えて革命をやり遂げようという意味であったに相違ない。革命というものは外部注入で組織しなければ可能でない、彼らはレーニンを否定したなどと雑党雑派の諸氏はバカ騒ぎしたが、そんなに騒ぐほど僕たちは非常識なことを言い立てたのではない。革命運動をやって飯の種にするなぞ革命家にあるまじき所為、もってのほかという倫理主義があったとしても、これは必要なご愛敬である。
         *  *  *
 ところで前述の資質や個性と仮に読んだものは、個人にとってこの「自然性」にあたっていると言うことができる。ある人間がこう生きて来たということは、こうとしか生きられなかったという意味と同義である。人間は個体として織り込められた諸契機を自然として呼吸する以外生きようがないのだろう。



(一段下ゲ)
人は様々な可能性を抱いてこの世に生まれてくる。彼は科学者にもなれたろう、軍人にもなれたろう、小説家にもなれたろう、然し彼は彼以外のものにはなれなかった。これは驚くべき事実である。この事実を換言すれば、人は様々な真実を発見することは出来るが、発見した真実をすべて所有することは出来ない、或る人の大脳皮質には種々の真実が観念として棲息するであろうが、彼の全身を血球と共に循る真実は唯一つあるのみだという事である。(小林秀雄)



 小林秀雄は尊敬すると同時に最も粉砕すべき敵であるけれど、まず僕たちも彼と共にすなおにこの事実に驚こう。が小林にしても僕たちにしても最初からこの事実に出逢えるものではない。観念の自働性に慣れている僕たちはそれに出遭うためにはずい分と迂回せねばならないようだ。人間の自然性の壁にぶつかって手ひどい傷を負った痛覚を経ないではこの真実と邂逅できない。意識として取りだすことは、むろんできない。小林なら「この世に生きるとは咽せかえる雑沓を掻き分ける様なものだ、しかも俺を後から押すものは赤の他人であった」という覚醒を契機にしたろうが、どうやら僕たちも苦い心を通過しない思想は信ずるに足りないなどと言わねばならない破目に陥ったらしく思われる。
 僕たちはこの資本主義の末期の世界で、自分が無理やり自分につき合わされているという受感から逃げることができないでいる。自分や他人の生臭い体臭にむせかえりながら自分を引きずっている体である。してみると僕たちは今まで苦もなくつき合ってきた自己が徐々にか突然にか不馴れな存在であるかのような顔をしてこちらを向き、その非和解性に対処しようとしているのである。
 そこで、人間の固有性や「自然」性が現在本格的に問題になっていると仮定すれば、単純に政治的共同性に直結することが不可能になっていると言える。ナントカ行動委員会があってナントカがあってカントカがあって、というふうな階梯があり、それを登りつめたところにナントカ党がある、というようには----もちろん登りつめていくのは観念の自然な自動過程であるが----スムーズには行かず、そこにぽっかり空洞のようなものがあるとすると、それはまだ僕たちが掴みえていない「自然」ではないかと思う。共同性の求心力に抵抗し異和をとなえるものは結局ぎりぎりの所の固有の自然であろう。共同性にとってこれは厄介な怪物である。だがこの空洞を常に自己の負性として監視しえない共同性は必ず頽廃し腐敗するしかないことは自明である。
         *  *  *
 さて、ここで僕たちは最初の問題に還ってしまった。予期していたことだが依然として何も明示的ではない。どうしても連帯できないから相互に相手を観念の中で扼殺しておいて手をつなぐ、どうしても連帯できないから自分の穴倉に潜り込んで押し黙ってしまう、僕たちの思想はそのどちらかを採らざるをえないようにみえる。だが僕たちがそのどちらの道も採りたくないと考えれば第三の道はどこにあるのだろうか。模範解答は何処にも用意されていなし、誰もその問いに対して答えを与えることはできない。僕たちは、一歩ずつにじり寄っていく意志だけが答えの一切だと信ずるほかないようにおもう。
 ちょっと寄り道をしよう。かつてわが社青同解放派は、資本主義の均等化の運動は人間の感性の社会化・世界化をもたらすとして、組織論の基底に「感性の社会性」を置いた。その上で「行動委員会運動」なるものをとなえた。そのテーゼは「あらゆる党派やイデオローグに依存しないでそれ自体で存在し、それ自体で運動する」ということに尽きる。それは党の「細胞」でも、党の増殖過程、宣伝過程の一環でもない独立した運動を展開するものとしてあった。彼らは個々の感性を掘っていくと必ず普遍的なもの(世界的水準を持つプロレタリアートの階級形成として)に結合しえると信じた。
 彼らは60年代後半のダイナミズムを唯一荷った部分であると言っても過言ではない。すべての後進左翼はそのため色を失ったが、この新興勢力のエネルギーの起源を理解することは全くできなかった。マルクス・レーニン主義を標榜する諸政治サークルの感性は出発点ではあるが、プロレタリアートが資本主義体制化で存在する以上、それをいくら延長しても所詮ブルジョア的個の発展しか意味せず、決して革命的であることはできないという反駁に対しては、高度化されたブルジョア社会における感性の社会性が見えぬ政治ボケ、感性はぎりぎりの人間の唯一の確証であり、革命の原則的な問題はここに在ると一蹴した。
 この前提的認識は間違っていたか? 間違っていたはずはない。だが、それにしても、いま僕たちがぶつかっている壁が再び感性の個人性、個体性であったとは奇怪ではないか。
 解放派は、「朝鮮特需」をバネとし60年をメルクマールにして強固な安定期に入った資本主義社会の中で自らの個別の定在の確かさ、社会的権力の確かさを見せつけられた労働者のエネルギーの上層と、それを観念に負った学生とによって、日韓、早大闘争を突っ走ったが、政治党派がこのような行動委員会運動なるものを提唱することの中にもともと矛盾はあった。自らが政治的水準で党派を形成しているにもかかわらず、価値を「行動委員会」に置く思想を持つのは矛盾である。人間は同時に二つの神を持つことができないとしたら、党派の共同性は行動委員会によって引きずり降ろされるか、行動委員会を党に至るべく予定されている一過程とみなすか、そのどちらかに傾かざるを得ない。が僕たちは相逆倒する二つの課題の間に架橋しトータルに把捉しようとするこの、思想の困難性つまりは革命の困難性とまともに直面する彼らのラジカリズムに本当の革命の思想の薄明を見た気がしていた。それは僕たちを限りなく明るくしたと言える。感性の世界性へ、了解の可能性の方へ拡がっていく思想は明るい。そして僕たちが明るいかぎり、「党」に上昇するのは自然であった。それは僕らのたたかいの高揚期であり黄金時代であった。
 ヘーゲルやマルクス、あるいは小林秀雄や吉本隆明が考えたように、「私」、感性や意識は社会化されるだろう。だがこのことは、「私」が社会の中に何の抵抗もなしにとろとろと溶け込んでいくことを意味しない。人間の個体性が露出してしまうという契機を媒介することがそこには必要である。資本主義の人間と人間との対立と抗争の諸相を生身の人間がしっかりと抱え込んでしまうことである。僕たちは現代の危機を末法だの世紀末だのとおだてあげない。人間の個体性の容易ならざる露出は、この世界での人間の存在の仕方が丸裸になって露呈されている証左である。言い換えれば、数千年の人類史における共同体(性)のあり方が根底的におびやかされているのだ。
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 ひとびとはいま時代の危機を前にして、あらゆる共同性から離脱して個人の方へ、あるいは家族の方へ召還することを以って最後の防衛線を張っているようにみえる。自身危なっかしい所に立っているので際どい言葉は使わない。言葉は日常の最低の礼儀とか用事をたせば足りる。あとは駄洒落に類したものだ。僕たちにはテコでも動かぬ安定と見えても、これがひとびとの社会での定着の仕方なのである。そういうすり鉢の底で、ひとびとの内部には交換されない観念が蛇のようにとぐろを巻いているように僕はおもう。誰の胸にも飼いならされぬ蛇は棲もう。僕たちの蛇はどんな論争にも説教にもねじ伏せられなかった(論争を稼業のようにしてきた僕たちにしてもだ)。ある不可能性、不可触性の領分に蛇は棲み、それは凶暴な力をもって僕たちを射すくめる。
 「人間の個体性」は迷宮であるかもしれない、嵌まってしまえば逃れられなくなる蛸壺であるかもしれない。蛸壺の中で、労苦を自己の宿命と、歴史をつまる処思い出と、世界なんぞはそよ吹く風と達観し、か細くおだやかに往生することも可能である。そして僕たちも常にその誘惑にさらされていて、それに自由であることは決してできない。かしいでいるより、いっそ倒れて横になってしまった方が楽に決まっている。キリスト教的な倫理と共同性に侵され衰亡する個性の危機を前にして、それを、要するに弱者のルサンチマンによる共同を傲然と拒絶したニーチェを強いだなどと言う馬鹿はいまい。人は強くなったりする器用さを残念なことに持って生まれていない。ただかしぐ自己を変容させる思想の機制に習熟するだけだ。
 「人間の個体性」に座礁してしまった思想は、明るく世界の方へ拡がっていく「人間の社会性」にたいして人間のケチ臭さや卑小さ等に足をとられ、無限に衰弱していく。それは内的な倫理に錐をもみ込んでいくに似た孤立した営みを生む。こうして人はゆるゆると円寂に入り老いぼれていくのだろうか。だがこの衰弱はどうしようもないような力があるのは見てきたとおりなのだ。その力を逃げるのではなく忌避しうるものは蛸壺に自足しない観念の意志性を習慣のように手に入れたものだけである。くだんのニーチェは意志の神学とも言うべき力動学をあみ出したが、エンゲルスに「君たちも所詮宗教(Religion)ではないか」と言った男の正当性もエンゲルスたちの正当性も諒解している僕たちは宗教的にも人間はありうるという観念の常道をも繰り込んだもっと別の観念学をあみ出すべきなのである。
         *  *  *
 僕たちは思想を玩具のように弄ぶほど子供ではなくなったけれど、コットウのように眺められるほどには老いぼれていない。では僕たちは少しばかり成熟したのだろうか、間に合わない思想を期限の切れた定期券のように持て余していたのだと悟るほどには。無期限であるかのように思いなしていた定期券が既に期限切れであったとは何とも間抜けな話である。「成熟」がこんな形で訪れるとすれば、人が年を食うということは、間抜けさを食んでいるということだ。おそらく成熟するというこは別にりっぱなことでもご大層なものでもなく、どう転んでもこのようなものでしかないのだろう。
 成熟するとは、ふつう自己を一個の生=性として樹立することである。何のことはない、それは生や性の前に自分が引き据えられてしまうという意味である。僕たちはこの間の云わば東京戦争の戦後にまる裸になって放り出され、自己と正対することを強いられていたのだ。敗残者の奴隷根性を免れるのは、強いられたことを精一杯為してゆくことを最低の誠実とする(倫理がらみの)意志である。思想が生きるためには強いられたことを自らの意志で進んだのだと錯覚することを条件としている。繋ぎとめることに失敗すれば思想としては解体するほかない。思想というものは継続する時間の化物である。
 次のように逆に言い換えることも可能である。
 観念の衰弱を食い止めるのは観念だ。観念が衰弱の淵に近づくとすると、観念は自らそれを選んだと考えたがる。でなければ少なくとも観念的には生きられないからだ。けれど観念の生き難さは現実の生き難さに根拠を持っていると僕らの科学は教えている、というふうにも。
 問題はある程度明瞭になってきた。「宿命」を呼び寄せる観念も、観念という観念はいつでも現実の方に、現実と自己との相関の方に切り返すことができるということである。僕たちは自分の「個」性の卑小性と出遭うことがあたかも自分の宿命(星)と出遭うが如き精神風土で育ってきた。わが人民大衆は社会は甘くないなどと若者に御説教を垂れながら、革命を荷なったことは一度もない。甘い所はちゃんとケチ臭く盗み取っていたのだ。人類前史の人民はこんなしみったれた手品まがいの狡智を身につけている。貧しきかなアジアの民。「若い時の苦労は買ってでもせよ」、ところが今の僕たちときたらそんな朝ぼらけ風な苦労は一つだって恵まれていないのである。うだつの上がらぬ毎日をボーゼンと暮らしてはいても、一昔前にマンエンしていたと言われる虚無や倦怠とは異質の苛立たしさ、やりきれなさを情況は僕たちに与えている。まわりにあるのは無理やり目を醒まさせるような確かな労苦ばかりだ。これが僕たちが「宿命」の穴倉に安息することを拒絶するのである。「宿命」の穴倉とは世界に受け容れられなかった個性の世界に容れられる唯一の細い通路であるが、それは開かれない世界性というべきである。この無告の世界性を僕たちのネガとするならば、ポジとは自分の「宿命」《個性)に誠実であることが相関するところの自分に穴倉として振り当てた現実に対する抵抗である。
 そういうとき、僕たちの共同性とは、ケッタクソ悪いが再び小林秀雄に倣って言えば、各人の異なった個性が統一ある劇をなす根底の理由は、即ち各人の個性を異なるものとする同じ根底の理由であるという連帯のしかたである。僕たちが手換え品換えて探りを入れ、手に入れようとしたのは、つまる処、暗さを明るさに、個別性を共同性・社会性・世界性に、ネガをポジに、必要のあり次第自在に変容させうる変換式を必要としているということに尽きる。どんな窓口からでも現実界を見透せる視覚である。その必要性も僕たちの独創ではなく現実から強制されたものだが。
 現在僕たちが多かれ少なかれ陥っている失語(くどく言っておくが、それは景気が悪くなるとか沈黙しがちになるとかばかりではい)の情況に歴史的な理由があるとすると、僕たちが成人する年頃であるという個体発生史からの理由の上に人類史が重層させてきた観念の全層が覆い被さっているのである。人間は人類史から自由な純粋培養器の中で単一のモデルを通過して1個の人間になるわけではない。僕たちは既に形成されていた人類史を呼吸しながら成長してきた。ならば僕たちの抱えている失語は直ちに世界(史)の方に投げ返すことができるはずだ。
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僕たちの少年期の牧歌はだいたい解体した。あとには白けきった荒地と、ほとんど生=性に等しいしこりが残る。これを処理することができず呪縛され地虫のように地中をはいずり廻るのはむろん善悪の問題ではありえないが、精神が時間の堆積の未来への投射だとすると、そのままでは精神は自同律の円環を閉じたままゆるゆると沈没するほかない。それは一つの「死」である。言うまでもなく、いま僕たちは「死」の親しげな寂光にかこまれて、「死」のまわりをうろついているのだ。「死」を持ち堪えている意識は悲哀と表裏をなしているがそれはお涙ちょうだいのセンチメンタリズムではない。意識はその時迷宮に踏み入ろうとする意志の怪物と化している。
 僕たちの「感性」の思想は常に感性から数歩遅れて歩んでいた----この受感は痛々しく僕たちに刻印されており、その傷が痛むかぎり自己にとって逃げ水であるような自己を果てしれず追いかけねばならないという苦行を自分に課さねばならなくなってしまう。それを覚悟するならば即ち思想の存在理由はあるのだ。
 極限化された固有性が不可侵であることは間違いなくとも、その蛸壺が思想や論理の出自の秘密のありかとしても、それが思想や論理の存在を保障することはできない。マルクスの言うように思想とは情熱の形式であるからだ。情熱のないスタイルなぞ空気の抜けたシャボン玉のように形式を作りえないだろう。僕たちが心打たれるのは、その思想の「真理」への近似度によるのではなく、思想として組織されざるをえなかった「情熱」の「確かさ」である。(けだし「神の国は言葉ではなく力である」だ。)「ヘーゲル」はヘーゲルの情熱の形式、「マルクス」はマルクスの情熱の形式として僕たちは出遭う。話は簡単であり不思議はない。だがこのことは、人は人のスタイルとしか接することができないという陥穽を包含している。スタイルを内側から支えている情熱を理解しえなければ僕たちはガラクタとつき合っているのだ。だが膨大な形式からすくい上げられるものは自分の体験と思想が映し出しえるものだけである。僕たちはそのようにしか接しえない。太宰治じゃないが「君ハ雙眼ノ色ヲ看ズ。語ラザレバ愁ヒ無キニ似タリ」である。
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 交換価値の乏しい言葉が内側にうずくまっているのだろう。これが僕たちの「個性」を形づくっているのだろう。言葉はロマンを語ることもできた。だが言葉はロマンチシズムによって駆動されるだろうか。僕たちはここから本格的なアジテーションが始まるという時にアジテーションの言葉を失くしていた。これではまるで、言葉を駆動するのは交換価値の乏しい頑固な共同性といった具合の背理を示すようなものだ。それでも個人の内部にわだかまるものは言葉であることは確かなことである。
 僕は詩人(政治運動家でもよい)にはそれに的確な形を与えること以外の多くのものを望もうとは思わない。およそ「個人」に出遭わないような言葉は遊戯に属するのではないか、何ものも創れないないのではないかとタカをくくっているからである。「階級亀裂の止揚」などと御大層なことを言いながら、たかだか階級亀裂の現象であるばかりでとてもその危機そのものには効力を持たない、「リアリストの仮面を被った現代のセンチメンタリスト」の手合いがふところ手の太平楽を謳歌してしても僕らは謳歌すべき何ものも持っていないのである。ま、マルクス主義も芸のうちだからせいぜい頑張ってもらいたいと皮肉でなく願うことしか彼らには望まない。
 思想はいつも数歩遅れているという痛覚が本物であるなら、言葉の出自そのものが問題になっているのである(「問題はことばにあるんじゃなくて、それをいひだす根性にあります」と言った福田恒存みたいな人がいるぐらいで)。つまり言葉が悉く抵抗としてしか取り出せなくなっているのだ。現在の詩の困難性は、何を言っても聞き届けてくれないという意識があるからではなく、捉えられる突起が消失してしまって平べったく固着してしまったからではないか、しかも突起の消失が自分にとって極めて自然に訪れたということによっていると僕は思う。これが文学青年、政治青年の言葉の抵抗の最も深刻な根底であるように思う。このことは、大衆の沈黙に知識人の失語が一週遅れて近づいていると見ることも可能であるとさえ予感させる。
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 だがもうおしまいにしよう。書けば書くほど何を書いているのやら判然としなくなる。
 僕は一体何を書いていたのだろう。論理と言えるほどのものはなく、何やら暗いいかりの如きものにせかされ、こっちから突っつきあっちから突っつきしたあげく、結局手に余って投げ出してしまったという風に書いてしまった。できあがったものといえば、成功していない観念の尻取りゲームである。また自明のものを今さら持ち挙げたという後味の悪さも残っている。
 知識の容量が少しばかり多ければ言葉の運動はできる。だがそれが何だというのだ。この世には「大衆」というものが存在しており、僕たちが何を思案していようとそんなものを一吹きで吹き飛ばす目を持っているのではないかということだけが、(何を書いてもアカンベーしている自分とダブって)恐ろしく思った。そういう目の前では僕たちは深刻ぶって駄洒落を飛ばしているにすぎないのではないか。言葉があまり板に付きすぎると人は言葉を失くす。僕たちはそれを本当に言葉を失くしたのだと考えないでは勝手なことを言えないのではないか。おそらく思想にとって最後の問題は、「君が何を考えようが君の勝手だよ」ということの突破であろうが、僕たちはどう見積もってもその中でしか通用しない言葉で王国を維持しているにすぎないのではないか。
 僕は久しくマルクスを真にうけて批判の方法の根底に宗教批判を置くことを構想していた。ところが考えるそばから「俺は知らない」「私は信じている」と言ってすり抜けていくものがおり、とたんに萎えてしまう。例えばこの文章にしても各位が「私」という個人性の方に還元してしまって素通りさせるのであれば、僕は黙るしかないのである。
 なぜ僕が黙らなければならないのか、でなければ、なぜわれわれの言葉は論争から論破へと堕ちてゆかねばならないのか、この二つの設問は、どのような思想も固有の宗教性に憑かれているという逃れらることのできない前提において同一である。換言すれば、「君がどのように考えていようとそれは君の自由である」という余地をどうしても思想は残しているのである。この「自由」が所謂「自由主義」の理念であり、かつ恐るべき暴力性を孕んでいるのだ。次のように図式的に示せばわかり易いかもしれない。一つはブルジョア民主主義という政治制度下におけるブルジョアジーの独裁、もう一つは戦後民主主義の中で成熟しつつあるがいまだ顕在しない労働者階級の権力である。前者は「それは君の自由だが」と言い、後者は「そうさ俺の勝手だ」と着実に自己を権力化しつつある。
 このような情況を横目に、宗教批判が思想の宗教性をも深読みした上で為されねばならぬとしたら、僕は何とかして裏門から侵入して寝首をかく道を採らねばならないと思った。(誤解を避けるために言っておくと、マルクスは宗教批判を商品・貨幣批判、資本主義批判の方法として設定している。)切実な意味での思考とは論争を断念したときから始まるように思う。そしてこの思考だけが精神の高揚期以降の自己を支える唯一のものであると思う。僕たちはずい分惨めな季節にさらされたものだ。
 ともあれ、である。一転突破・全面展開、そのような一点がどんなに困難であってもそれは探されなければならない。



 さてそれでは、僕もパウロのように「あなたがたの血は、あなたがた自身にかえれ。わたしには責任がない。今からわたしは異邦人の方に行く」と言うべきだろうか。 (おしまい)



   誤字、脱字、及び文法上の誤りを許されたい。
            1974年10月28日