大事そうに何を握っているんだい? 「ダイヤモンド」 嘘をつけ、ただの砂じゃあないか。「俺が何を手に しているか、どうして君に分かる?」 みんな下にこぼれてらあ。



 頑是なきわれわれの非望は、かくて、ことごとく他人様にばれてしまった。思想とは妄想の類語であるらしい。 妄想なら駆逐するにしくはない、というわけで、健全な小市民は生活に狎れることで手に入れる情報の通となり、 ちょいと気の利いたセリフのひとつやふたつを引っぱり出して女の子を感心させ、ひそかに満悦し、あるいは、 凶々しいものはすべて傍を素通りさせ、自分は何食わぬ顔でタバコを吹かしていたりする。正義も悪徳も計量不 能の微細なかけらとなり、こてでならしたようなのっペらぼうの膜によって世界認識は閉じられている。



 竹村さんには気に食わない。娑婆苦、この世で生存するというだけで身に負わねばならない息苦しさ、これら を心理的事実や資質に還元しようと思えばなんだって還元できようが、存在の剰余たる観念に対するそのような 処遇のしかたがありうることがそもそも気に食わないのだ。それは時代的なニヒリズムや喪失感のうつし絵であり、自分たちを塗り込めるべき貴賓な心理的制度であり、せいぜい風俗にすぎないからだ。竹村さんは風俗が恐い。風俗とは弱気の虫で、敗北の因子で、個体性の倒壊であると考えられている。



 夢と暮らしていたわけではない。現実と闘っていたというのもおこがましい。ただただ現実という観念と悪闘していた。だから各々の闘いの相は他人からはよく計量できない。このことはさまざまな誤解を呼んだ。悪口も自己宣伝も裏切りもユスリもタカリもネコババも無関心も倒錯も、それが惹き起こす心理的抵抗に関らず、思うがままという仕儀となった。隣人関係から世界秩序まで恣意性が氾濫しており、抜きさしならぬ問題にぶち当ってもそれを笑いのめせる契機はどこにでもある。敢えて抗争に持ち込んでも、薄いゴムの膜のような世界に包囲されているのを知るばかりだ。空無化された意志は死に向かって投射される。そこは意志の最後の防塁である。



 われわれの革命はどこへ行ったか。離魂する思想のすべてを賭けて問いたい。竹村さんなら言うかもしれない、革命はあなたがたの汗ばんだ手に握り潰され続けたんだ、と。だが、本当は、握り潰したのは片々たる心情のけいれんにすぎなく、この世界に対する批判としてはまるで素寒貧なものを握りしめたにすぎなかったのだ。批判の思想をあらわす言語はまだあらわれないのだ、とマルクスは言った。



 革命は遠くにありて思ふもの、そして悲しくうたふもの、とくらあ!