『フォトショップ・エレメント』の解説本を見て、A女は言った。
「こんなにいっぱい、出来るんだ。」



わたしは言ったのだ。
「出来ることはいっぱいあるけどね、
やりたいことがな、出来ないんだ!」



愚痴ではありません。
自分の理解力の無さを嘆いているのでも、
棚に上げているのでもない。



アプリケーション・ソフトのほとんどが、
実行しうる機能は山ほどあるのに、
行きたい道には迷ってしまい、遭難してしまう。
そんなんばっかりである。



おれは、ショーウィンドウの向こうの「豊かな機能」よりも、
手に入るものが欲しいのだ。



可能性は(ぼくにも)開かれている?
そうだろうか。
わたしたちは、ショーウィンドウのヴィジョンと、
手に入った零細な機能との間をうろうろするものでしかない。
あなたは、その間を自由に行き来していると思っている。
インプシブルドリーム(見果てぬ夢)でも、あなたの夢だ。
存分に夢見ているがよろしかろう。



そういう人は、使う・使わない、出来る・出来ない、に関わらず、
豊かさを堪能しているのでしょう。
虹の彼方でも、蜃気楼でも、
視野には入ってくる黄金の「多機能」、広大無辺のエル・ドラド!
この「多機能」が(幻ではあるかもしれないが)豊かさの牽引車であ
る。



幻の多機能が、わたしの乏しいふところとメモリーをむさぼる。
幻(まぼろし)/経費(経費に占める「幻」率が、悪すぎる。
これって、わたしだけ?



まぼろしを買って、GDPに貢献している、って訳か?



ありえますね、おおいに。



まぼろし(夢)を作る設備投資には貢献しているわけだ。
その意味では、まるっきり無駄な資金投入とは、言えない、か?



言えない、かもしれないけどね、
コストパフォーマンスが悪すぎるんだな、わたしには。



国民の総資産に、この夢マボロシが相当数含まれているんじゃないの



か。「国民総生産」に占めるマボロシを割り出してくれ、と言いたい。



まやかしだ、とばかりは言えない。
なぜなら、「豊かさ」とは、手に入るものだけではないからだ。
蜃気楼でも、エル・ドラドでも、極楽浄土でも、
きらめくショーウィンドウの彼岸でも、
それが人間をどれだけ豊かにし夢や希望を与えたか、計りしれない。
想像力をも含めて、
人間の持つパワー総体としてそれ(豊かさ)はある。



「幻想でしかない」と告知するのも人間の知恵です。
ただし、豊かな幻想力を解読できなければ、半可通のそしりを免れまい。



 たとえば、オウム真理教の罪業とかね。



理屈の上では、じゅうぶん承知しているつもりなのですがね、
デジタル貧民ナカムラの豊かさの指標はだな、
「やりたいことが出来る」、これがすべてだ。



PS.わたくし間違っていますでしょうか?



毎度、ご厄介になります。
謎かけになってしまいました。



伊藤九拝氏の年賀状で、切手シートをゲットしました。
末筆ながら、謝々。2006.3.1