9.11からもう5年も経つんだ。
「テロとの闘いは長期戦」
とブッシュは泥沼への進軍ラッパを吹き続ける。
アメリカによって構想された産業世界図と
「平和と民主主義」の輸出は、ベトナムでの敗退など屁でもなく、
まだまだ前進するのだ。神風に頼らず。
どんな残虐非道な統治体制の国であっても、
他の世界は(口は出しても)手を出すべきではないのではないか、
という気になります。
その国の国民が自ら決するのを指をくわえて見ているしか
他にやりようがないのではないか。
サルトルなんか、こういう「傍観」は歯がゆくってしょうがなかった
のだけれど。「座して見る」だけだったら民主主義者とは呼べまい、って。
キリスト教は輸出しまくって人口を増やしていった。
(もちろん、その前に世界宗教になりえる素地は完備していたことを
言っておかねばならないが。)
理想や理念は輸出し得る(交易の物品と同じように)、
というのがロゴスの国の住民の思想である。
アジア・アフリカの民が「そうとばかりは言えない」とひっそりと
反旗を翻えしているのが僕の白内障の目にかすかに見える。
A・Aがいずれグローバリゼーションの波に巻き込まれ
死に絶えるとしてもね。
日本は「正義と民主主義」のために盟主に付き従った。
「理念」に殉ずるというほどの覚悟は乏しかったことに
異を唱えることはない。
もっと深刻なのは、「負け組」に対する「国内テロ」に無感動な
目である。「育児放棄者」に対する断罪から、
年間3万人を越える自殺者まで、
これらは国策的テロであり、棄民政策ではないのか。
9.11についてのコメントは、当ブログの2001年10月に再録しました。
今日、庭先に彼岸花が一輪咲いていました。
ここらの地方では、シーレーと呼んでいます。
「死霊」ならむ。