アレン・ギンズバーグの訃報と同じ日に『マルチメディアリテラシー』拝受いたしました。基礎的かつ包括的な理念が提示されており、たいへん良く出来た教科書だと思います。
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”知”は、もとい<知>は、意識の発生以来世界を覆い続けています。鳥瞰から衛星瞰へ、視線はより高く、より遠くへ移動しています。観念の在り場所は、観念の手の届く場所までは移動できる、ということです。DNAから脳髄、宇宙まで、同時に、時間的にも、宇宙創世から終焉までの粗筋を立て得る視線をも獲得しつつあります。視線の自在性は、個々の人間(あるいは共同性)の独自性という侵すべからざる領域をも侵食していくことを意味しています。
この場合、視線とは、誰某が所有しているという意味ではなく、人類史的に獲得された<知>ということになります。個々の人間にとって類的知がブラックボックスになろうがなるまいが、また、この<共同の富>がすべてに於いて有効であり、人間に幸福をもたらし、平和の源泉になるかということも、さし当たって関係がない。ただ人類が生成した、直ちに消費されざる剰余が共同の知として集合した、ということです。
宇宙史と言ってもいいし、生命史と言ってもいいし、人類史と言ってもいい、つまり、宇宙から疎外された生命、生命から疎外された(人間の)意識、が像としての<人類>を構成しているように思います。模擬的に言えば、個々の組成が結合された・顔や人格を持たない集合的知が一つの生命体のようにうねっているわけです。
南方熊楠の好きだった粘菌(のある種)は、普段は個々の独立した生命ですが、〔危機的状況においては〕突然集合し一つの生命体として統合されるという面白い生態を持っています。個々の人間(あるいは生命)は、DNAの存続のために使い捨てられるべき容器にすぎない、というのが生物学上の有力な仮説ですが、それを借りれば、生命の多様性そのものが、抽象的概念たる<生命>の容器にすぎない、とも言えます。そういった<生命>と類的<知>をリンクする概念を取り敢えず「仮説的人類」と呼んでおきましょう。
彼は、生まれてから100年足らずで死んでいくといった生体を持たない。あたかも、神の如くありますが、倫理的な規範力は、どうなるのでしょう。かつては、個々の生命を抽象し、統括し、統合するものは国家や神でしたが、今やローカルな課題に過ぎなくなっています。現代は仮説的人類が電子的システムとして現象しているように思えます。
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コンピュータの思想は、「あらゆる事物は情報である」「モノとはモノに関する情報である」という形而上学です。あらゆる事物は、畢竟<情報>に組み替えられるべきあるものに過ぎない。事物は<事物>という情報に転移し、この情報系に組み込まれ、質量を喪失した影のように、しかも光速の速さで、運ばれる。1977年にアップルⅡが発売されて以来、物理学のテキスト上のものでしかなかった光速を初めて市民が手にしたと言えます。徒歩→馬や牛→車→鉄道→自動車→飛行機・・・と移動のスピードは高速化し、情報も大兄のおっしゃる通り、音声→グーテンベルグ→電信電話→FAX→TVとTELE・・・通信の規模を拡大してきましたが、スピードの上限である光速を持つ伝達系では、移動するのに短時間で行けるという意味を超絶し、ネットワーク上に<移動>というコードを与えられたものといった意味になります。遠隔することが何の障碍にもならない、訳です。
とすると、ですね。次に出てくるのは<共時性>という概念でございますですよ。ユングや宮沢賢治は、空間的な隔たりが無化される世界を構想しています。
「どうしてあすこから、いっぺんにここへ来たんですか」
「どうしてって、来ようとしたから来たんです」と、『銀河鉄道の夜』では、何の不思議があろうか、と言いたそうな口振りでした。共振しうる場を持ってさえいれば何処へでも行けるのさ、というわけです。
これは、テレポーテーションや幽体離脱、遠隔察知(自分が体から脱け出し、上空から角のたばこ屋が燃えるのを見た。次の日その家が焼けてばあさんが死んだ。宣保愛子。ここに居るはずはずのない人と会ったが、その時分にその人が死んだことを後で知った。とか、あまたある不思議話)などの、超常・心霊現象または神話・伝説にも繋がります。
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『2001年宇宙の旅』の宇宙船ディスカバリーのコンピュータ”ハル”は、不完全きわまりない人間を統御する意志を自ら生み出しコンピュータの分際で反乱を企てるし、フランケンシュタインは産みの親の人間に復讐するし、『ブレードランナー』のレプリカントは自分に相応しい死に場所を求めて主人たるべき人間に戦いを挑むし、泥んこから作られたゴーレムは人々を恐怖におとしめる怪物になるし、『大魔神』は悠久の眠りから醒め尊大無慈悲な悪代官をやっつけるし、人間は自分の生み出したものを棚に上げ、それにひれ伏したり、畏怖したりします。棚に上げることで神あるいは神話を励起するのです。
「ハル」は人間の道具から離脱し、「スイッチ切っちゃえばいいじゃん」のレベルを超え、完結した(自給自足の)世界を構築しました。あたかも神のように判断し、審判を下す。この映画が示唆的なのは、人間は生産手段から自由になりたがっているということと、逆に、意識の視線が照射された道具もまた使い手の手から解放されたがっているのだ、ということです。意識は対象を励起し、賦活すると言い換えてもいいでしょう。
励起されたものは、逆に人間に対して視線を送ります。傾斜が病的な者には、監視妄想、被視感として現象しますが、だれでも多かれ少なかれこの傾向(固有の傾斜角)はあります。
メザシの頭でもコンピュータでも同じです。
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現在、コンピュータ(のイメージ)がまき散らし、人々を巻き込んでいるいるのは、技術上のあり得べき・且つ輝かしき近未来像ではなく、古代からある<ユートピア>幻想の写像ではないかと思えます。貧困や病気、民族や宗教や国家の分立・対立、それらを越える<神の国>、という幻想をコンピュータは映しているのではないでしょうか。
「パソコンやるか、人間やめるか」「パソコンできなきゃ落ちこぼれ」「パソコンを避けて通れるか」といったパソコン・ファシズム風なジョークや言説がビマンする(心理的リアリティの)根拠は、愚かしいかどうかは別として、どうやらこの辺にあります。
ユングは、「空飛ぶ円盤」について、神の権威が失墜した今、新たに人々の集合的無意識を担うモノとして創造されたと言っています。矢追さんもめっきり見なくなった昨今では、UFOの代替品としてパソコンが担ぎ出された、超LSIチップの曼荼羅こそ現代の聖像(アイコン)である、とユングは言うかもしれません。集合的無意識とインターネット、互いに写像関係にある、という風な。
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単体のPCが高機能化するだけだったら、それほど問題は露出しません。
企業が企業内合理化の一環として導入されていたPCは、LANやイントラネットの形で他のコンピュータと結合した受注・生産・在庫管理・物流を行うようになっているし、家庭に入り始めたPCも、ワープロやゲームといったスタンド・アローン機のレベルから、取り敢えず電話回線を介した「通信」の方にスタンスを移行させつつあります。
野口悠紀雄氏は95年に「今のコンピュータはネットワークに繋がっていないと価値のない時代になってきている」と言いました。
個々のPCがシナプスを延ばしあい、他のニューロンに結合し、絡み合って、リンク&リンクのネットワークを組織し始めています。世界を覆う<第二の脳=超・脳>を作りつつあるのです。このステージでは、集合的知が<アニマ>の現象に近くなります。
この「脳」が、どのような<視線>を人間に送るのかが、僕の民俗学の課題です。
狐狸妖怪とコンピュータ、この類縁関係がコンピュータに妙な影を落としています。つまり、「道具」以上の付加された像としてのコンピュータ、が形成されているのです。
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ともかく、PCが現代を読むには最もふさわしい対象であることは間違いありません。これを書きながら、現代(のトレンド)を追い求めるも、それに追い立てられるも同義であることが骨身にしみるのを感じました。なぜ、私たちは尻の温まる暇もないほど、<現代>に追い立てられなければいけないんでしょうかね。たぶん、現代というモノが集合的意識と無意識のぶくぶくと発生する(坊主地獄のような)場だからでしょう。
要するに、歴史を創るということは、必然の波にぷかぷか浮かんでいると同じ意味です。「自主独立」も「主体性」も「自立」も、何処からかやってくる<歴史>にどう身を処すかという自意識の立て方の問題のように考えられてきたが、実は、<必然>の波にどう意識的にコミットしていくのか、ということだったのです。
ニュートンは、時間(・空間)というものを、その中でイベントが生起する容器だと考えていました。アインシュタイン以前、ヘーゲルは「時間とは生成と死滅の抽象である」と言っています。現代は、内的な時間意識に組み込み得ない時間が、どこかに発生している時代なんじゃないでしょうか。コンピュータが、とは言いませんが、それを請け負う、<域>がどこかにあるはずです。
過剰な<時間>が意識を隆起させた、のなら、この時間の生息する場所も意識の内にあるはずです。『禿げ山の一夜』みたいに、それらが集い、饗宴する場があるのでしょう。
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「世界語なんてものは、ない」と小林秀雄は言いました。
コンピュータは、世界語の野望を持っています。インターネットの主要言語の英語、という意味ではありません。もちろん、エスペラントでもありません。全く分かりませんが、<超言語>をねらっているように思えます。民族国家を超える、翻訳可能言語です。
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という訳で、「トランジスタと配線でできた道具」(吉本隆明)以上の意味を付託されているコンピュータについて考えてみました。
一部不調法がありました。送信前にちょいと手直ししてたら、何をどう間違えたのか、20行ばかりぶっ飛ばしちまいました。あたしゃ、酒飲んで書くので何を書いたのか、すっかり忘れてるだによ。だから、Windowsは嫌いだよ、あたしゃ。「松」がええだよ。
中原蒼二様 1997.4.13