12月21日付けの畏友「被害日記」氏に、
次の書き込みがありました。
グーの音も出ません。
http://www2.diary.ne.jp/user/105088/
文句があれば、不肖私めが代理戦争を買ってもいい。
あんなもんにゃな屁みたいな雑文を垂れ流している輩
(オレのことかよー!?)には、薬になるでしょう。
>人は他者を低く見積もらないと自身を保てないのでしょうか?
>善意も度を過ぎると悪意に変容し、攻撃のスタイルを取るのです。
善意も、攻撃の一態様であることは、
『幸せの王子』を待つまでもなく、明らかです。
「不幸せ」を攻撃するために彼は我が身をすり減らした。
ぼくはオスカー・ワイルドのこの童話が大好きですが、
逆さに読むと、
善意をおっかぶせるために他人の「不幸」を創造した、
とも言えなくはない。(十字軍への嫌味か?)
我が身をすり減らさないような「善意」は、
攻撃と同じだと、彼=被害日記氏は言うのだ。
この辺の機微は、分かる人には分かるとしか言えない。
太宰治は、次のような小話を書いています。
難破して怒涛に巻き込まれ、岸にたたきつけられ、無我夢中でしがみついたところは、燈台の窓縁であった、やれうれしや、たすけを求めて叫ぼうとして、ふと窓の中をのぞくと、いましも燈台守の一家がつつましくも楽しい夕食をはじめようとしている、ああ、いけない、おれがいま「たすけてえ!」と凄い声を出して叫ぶとこの一家の団欒が滅茶苦茶になると思ったら、窓縁にしがみついた指先の力が抜けたとたんに、ざあっとまた大浪が来て、水夫のからだを連れて行ってしまった。
燈台守の一家は、このことを知らない。
知らぬが仏、であります。