人間は、生命の多様性を食いつぶしつつあるのかもしれない。
多様性=秩序の分立、から、単一的な(専横的な)秩序の構築に
向かっているのかもしれません。



グーテンベルグから電信・電話、果てはインターネットとか、
テレ・コミュニケーションのメディアが膨張することによって、
分散・独立していたものが、
「世界関係」に投げ込まれることになりました。



「そっとしとけばいいのに」というローカリズムは、
センチメンタリズムになってしまった按配。



地球上で多様性を誇っていた固有の文化・生活様式も、
いずれグローバリズムの波に(むりやり)巻き込まれるでしょう。



湧き上がる<多様性>が、地球上の生命史だったのに。
産業革命以降、この多様性が<消費>されていきました。



固定されたエネルギーを解放するのが産業史でした。
水の落ちる力、
木や石炭、石油の燃えるエネルギー、
核分裂のエネルギー(そのまま電気に変換する方法をしらないもの
で、熱で蒸気を発生させてタービンを回すという、かなりローテク
な技術)、すべて、「形あるものは、必ず崩壊する」という自然法
則の<傾斜>に依存しています。



    | 地球誕生から46億年。
 蛇 | とっくに冷えてしまってもよさそうなものなのに、いまだに
 足 | 地球内部には7000度の熱がある。大気の保温効果や、
  で   | 大容量|で冷えにくいとしても、何十億年だ。
 す | ずーっと不思議に思っていたが、放射性元素の崩壊熱に
    |  よって熱供給されていることを最近知った。



形あるものは必ず壊れ、命あるものは必ず死す。
これは経験則から言っても、多分、真実でしょう。
ではありますが、「形あるもの」と「命」は、同じではありません。
ガラスのコップが一度壊れたら、まず元の形には戻りませんが、
「命」は、次の命を用意します。



生命は、同型というバトンを受け渡すという行為そのものです。
志(こころざし)がありますな。
言い換えれば、自己再生・修復活動が生命です。



コップには、ありません。
コップという組織(秩序)は、自己修復はできません。
 絶対出来ない、とは申しませんよ。
 ある振動と熱があれば、偶然、コップの形になる可能性も、
 ないとは言えない。でも、その確率と言えば、ゼロに無限に
 近い、でしょうね。



生き物は、「エネルギー」の自由落下運動を巧妙に組織・再編する
ことで生命を維持している、と言えます。
(言えますか? 自信ないけど、そんな気がします。)



コップの水に、インクを一滴落とせば、拡散します。
氷を入れれば、とけて冷たい水になります。
冷たい水も、やがて、ぬるくなります。
氷という秩序と水という秩序が接していると、
熱が移動していって、やがて熱平衡の状態になります。
高低差のない静かで平らかな世界がやっと訪れます。



 死の世界、とも言えますけどね。



生命体もそんな物理の世界の中に生きております。
奇妙だと思いませんか?
生命は、拡散と熱平衡の物理の流れに抗する(特異な)システム
なのです。



 似たものが一つあります。
 重力です。
  (熱に重さはあるのか?については、現在リサーチ中。
   ご存知の方はお教え願いたい。)
 生命は、もう一つの<重力場>を作った、
 と言えるかもしれません。



熱力学的な平衡(平均化)の圧力に抗して、
つまり、エントロピーは増大するという自然法則に抗して、
ありふれた元素や化合物(水素やメタン、アンモニアなど、幼年期の
地球にはすでに存在していた材料)から高分子のタンパクの合成を
し、襲いかかる解体の攻撃(紫外線とか)に対しバリアー(膜=細
胞膜)を張り、自己複製機能を持つ生命の誕生にまで至ったのは、
ありふれた化学的結合なのか、奇跡的な事跡なのか知りませんが、
ともかく、再生産する有機的化合物が、できちゃったんですね。
出来ちゃったんだからしょうがないでしょ!
責任取ってよね!
これを、わたしどもの学会(高知七輪愛好会)では、
「出来ちゃった生命連鎖」と呼んでます。



シュレディンガーという物理学者は、
「生物体は、<負エントロピー>を食べて生きている」
と言いました。(岩波新書『生命とは何か』)
生命は、エントロピーを捨てるシステムらしい。
自然界にとっては、かなり無理のあるシステムなんでしょうね。
生命に死があるのは、
自然界の夾雑物(異物)である無理が祟っているんですわ。
全ての生命体に訪れる死は、過労死、ということですねー。



生命は化学反応の多様性を組織し、
別のステージの多様性を構築した。
人間も、その多様性を食べてエントロピー(の増大)を減少=
捨てている。人間の諸活動は、膨大な熱量を排出しますが、問題は、
その熱源が、多様性・非単一性・無秩序性(負エントロピー)を
消費することによってまかなわれていることです。
乱雑な非単一性こそが、人間を含め全ての生命の「食料」なのです。



分散・独立した「孤立系」が、接点を持ちだすと、
多様性は1+1=2にはならなくて、やはり1だというのは、
自然界においてフツーのことでしょう。
孤島に持ち込まれた外来種の、例えば猫や魚とかが既存種の生物を
絶滅させることも大いにあるだろうからね。



グローバリズムの前には、「レッドブック」のオン・パレード。
後ろには、絶滅種の死屍累々、というわけだ。



「グローバリズム」なるものを、どうして人は、大量破壊兵器と
呼ばないのか?わたしには疑問である。



人間的活動と信じられている行為が、実は「多様性」を食いつぶす
のだ、ということにも、思いを致してみてはどうかな。
絶滅に瀕した動植物は、運命として静かに受け入れるでしょうが、
はたして、人間は、どうでしょうか?



本日(2004.2.27)、オウム真理教の麻原に一審の死刑判決が出た。
オウムについては、書きたいことがまだある。    2004.2.27