Startin' over… -30ページ目
日中の晴れた空の下、空気は乾いている。
太陽が傾きかけるにつれ、風は冷たさを増す。
スーツのジャケットを着ていてちょうどいいくらい。
あいつは未だにシャツのそでをまくっている。

夕方、教室を開ける。
10分後かそのくらいに、あいつが姿を見せる。
「こんにちは。」
「こんにちは。」

荷物を置きに行くその背中を眺める。
後頭部の髪の立ち上げが、いつもより雑。
かえってその方が好きだが。
視線をPCに戻した。

「先生。」
「はい。なした?」
「模試の申込なんですけど。」
「あ、申し込んだ?」
「いや、まだ。」
苦笑い。目尻にできるしわが魅力的だなんて、今はとても言えない。
受験する態度かよ?そう突っ込みを入れたくなる。
「いや、どうやってやったらいいかなーって。これ見て。
いっぱいある。」
スマホを両手で差し出された。
やさしく包み込まれるように、手が触れ合った。
その瞬間のあいつのまっすぐな視線を直視することができず、
おそらく私は下を向いていたのだろう。
少し大きめの画面に二人して覗き込む。

「マーク、記述。うーん。」
「どっちがいいですかね。マーク二回受けるのと、マークと記述にするのと。」
「理想言えば全部だね。」
「3回?」
「そう。あなた行きたいとこでも記述出るでしょう。」
それ以前に本番に近い状態で受験する、その経験が圧倒的に不足している。
「経済的に余裕があるなら、全部。もしきついならマーク、記述がいいんじゃない?
ドッキング判定出るし。」
「じゃあ、これ?」
また指が触れる。
「そう。」

おそらく会話の内容などどうでもよかったのだろう。
生徒といっしょに帰る。
職務規程への違反だ。
腐敗企業への挑戦だ。

暗がりを歩く。誰にも見られていない。
その確証は無いけど、動かずにはいられなかった。

仕方がない。
大義は会話の時間を確保するため。
あいつには会話が必要だ。

「そう。」
「うん、だから俺のいる場所じゃないと思った。」
「フリーターになるつもりは無いんだよね。」
「うん。親も反対してたし、俺もそう思ったから。」
「それで浪人決意したんだよね。」
「うん、そう。」


どうやら親や現状に反抗している模様は無い。
それにしても行動と決意は乖離している。
フリーターになったって、人のよっては月収40万を叩き出し、成功する人間もいる。
あいつにその可能性が無いとは言い切れない。
ただ、

「もし失敗したらどうするつもり?」
「失敗したときに考えればいいと思ってた。」

そんな生き方・考え方は嫌いじゃない。むしろ好感が持てる。
自分の生き様と照らし合わせると。


ただこの子はだめになってしまう。
直感的に感じずにはいられない。何としても大学に戻ってもらう。

「とにかく、片方合格はありえないと思ってるから。」
あいつが照れ笑いをする。
危機感は無いらしい。
果たして3分の1以下でも伝わったのだろうか。

「じゃ、話は以上。気をつけて帰ってね。」
「え、あ。」
予定外に交差点で、家と逆方向の路地へと曲がることにした。
「さようなら。」

もうこれ以上話すことは無いと思った。



頭の中で、あいつの名前を何度も呼び続ける。
1秒でも早く愛し合いたい。


ごつくて、日焼けして、時折洗剤で荒れた、指が長い、その手で触れられた感触を全身で思い出す。
あれほど私の心と身体にやさしく触れてくれた男はいたであろうか。
右指に残るあいつの髪の感触を思い出す。
もう一度、何度でも今すぐにでも触れたい。
そして頭を撫でたい。
胸で包み込むことができるのはいつになるだろう。

抑えられない感情は、日常を蝕むどころか輝きをもたらす。
手で、指で、目で、伝えられる感情を全身で受けて
私がここにいる意味を与えてくれた。

秋の夜長、ふとんが肌に触れる感触はことさら柔らかい。
一番近くにいるその大切な存在に触れること。
それを躊躇させるものについて考えることに、いったいどんな価値があろうか。

涙。


雨が降ればいいのに。