祭り囃子の音色、山車が通る時のかけ声は、次第におさまってきた。
もうじき飲屋街がにぎわう頃。
あいつとはろくに会話も交わさずに、ひたすら赤ペンを入れる。
目も合わさなかったけれど、不満そうな顔をするわけでもなく
むしろ温かくこちらを見守ってるような心地さえした。
22時を過ぎた。
「やば、ごめんね。ひとまずここまで。」
「ありがとうございます。」
1時間近くあいつの横にいた。
もちろんサービスだ。でも何とかしたかった。
それと同じくらいいっしょにいたかった。
あいつが何を感じているかはわからない、
これほど落ち着きのある瞳を今まで見たことがあっただろうか。
「遅くまでありがとう。」
非常階段のドアから、二人して出る。
ここで送り出すのはごめんだった。
二人して、ゆっくりと階段を降りる。
いくつかどうでもいい会話をする、もはや内容に意味は無い。
根拠は無いけど、私の仕事の仕方、許せないもの、守りたいもの、
誰よりもあいつがわかってくれてるような気がする。
それをわかってくれ、いや受け止めてくれている上にできる空気感。
「教室、いづらくない?」
「え、いや全然。」
いつものような笑い方。
「そう、ならいいんだけど。」
あいつがまた笑う。
「先生、うちの母親が言ってたけど、そんな神経質じゃないよ。」
「あら。」
「意外に図太いから。心配しすぎだって言ってた。」
「いやー別に心配してるとかじゃなく、まぁ心配してないったらそれもそれでひどい奴だけど。」
「ありがたいことだって言ってたよ。」
「あー、何だか、はずかしい。
ありがたい、うーん、珍しいってこと?」
「いや、名古屋弁で。」
「あれ、古文単語でありがたしって珍しいって意味だよね。」
「そう。」
「よかった。」
ばりばりの文系じゃない人間でも知ってる単語。
「なんか名古屋弁でもなんか、ありがたいって。」
外まで出て来てしまった。いつもならすぐ帰す。
ものたりなさそうな目で見るあいつを、家庭に帰す。
夏祭りの夜の街の片隅で、今一番近くにいるのがあいつ。もう一度いっしょに帰ることができたらなぁ。
「名古屋弁でさ、ありがたいって、なんか役に立つみたいな意味、なんて言うか。」
「helpfulやgratefulみたいな意味?」
「そうそう、そんな感じ。」
目が合う。
落ち着きと温かさ、理解を示してくれるような目。
そこにあるのは大人の表情だった。
泣きたくなった。
「じゃ、からまれないようにねっ。さようなら、気をつけて。」
これが絞り出せた唯一の言葉だった。