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坂本龍~今夜は泡風呂ぐ~

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皆が皆、実生活と並列して
SNSなどにおける『もうひとつの生活』を
しているように思う。


あ、今回のブログ真面目系?
さいなら、って人も
いっぺんこれは見てくださいな。



『もうひとつの生活』
顔も性格も知らない人間なのに、
そこにいればそいつがいるし、
知った人間かのように思えてくる人たちが
当たり前のように存在する、SNS。
実生活とは違うもうひとつの生活。


これは単なるありきたりなSNS批判ではなくて。



実生活には度々困難や課題が伴う。


パワハラ上司、
親ガチャ、
恋人関係、対人関係、
その他諸々だ。


それは、あくまで個人対個人の間で
解決されてきたし、そして
解決されてこなかった。
何か問題提起を行う場合、かなり
ミクロな単位で
例えば居酒屋のテーブルで話題に
なるような事や、
学校の放課後に膨大な噂話になるような事。
それがどうだろう。
今や全世界に向けて
何も関係のない人たちにまで
届いてしまう。


それが所謂、もうひとつの生活だ。


SNSなどにおける
兼ねてからの被害者側の通告によって、
あらゆる〇〇ハラスメントという認識が広まり
それらが軽減されつつある
というのは物凄く良い事だと思う。
まだまだ淘汰されるには時間がかかるだろうが、
それだけでなく、そういった
トラブルに関して、第三者からの
有益な知見を得やすくなった。


コンプライアンス、
テレビなどの過度な表現もセクハラ発言も
減ったのはとても良い傾向で、
これに関してはSNSがリテラシーを
育てた賜物だ。


しかし、だ。
僕が懐疑的なのは
そのSNSなどによる
疑似的被害が蔓延し過ぎている事だ。


最近で言えば、回転寿司界隈における
迷惑行為であろう。

もちろん、許されるべき行為ではないし
それ相応の報いは受けるべきだが、
それ以上に我々は疑似体験や
疑似的な感情を受け過ぎてしまっている。

僕とてそうだ。
何も知らない他人に
あまりに不快感を覚え、
あまりに報いを求めてしまっている。


それはそれで、異常な事実だとも思う。


我々は素性の分からない人物に対して、
興味を持ち過ぎているのだ。


SNSが無ければどうだろう。
例えば学校のホームルームで先生が
『最近回転寿司でこういった迷惑行為が多発しているらしい。皆くれぐれも真似しないように。また、見かけたら大人に知らせるように。』


注意喚起とは本来こういうもので、
顔も知らない誰かも分からない人物に対して
行うものでは無いと思う。

というよりも、
そもそも不透明なものを扱うには
相当なリスクと正当性が求められる。

そのリスクと正当性を
持ち合わせたものが、
本来テレビ局であったり新聞で
あったりしたのだが、
今や個人がそれらを発揮出来てしまうがゆえ、
それに慣れ過ぎてしまったのだ。


その不透明な事実に対する
リスクを伴わない注意喚起や
暴露、晒しなどにおける
疑似的な被害感情の弊害は、

その人のSNSのDMで『〇ね』や
誹謗中傷などのメッセージを送る行為だろう。
他にも沢山ある。

それは
あまりにも疑似的な被害を受け過ぎている。
あまりにも自分の実生活とは意に介さない
ムーブでは無いだろうか。


自分の生活が上手くいっていないから、
何かをやらかした人間には、
そのストレスや不快感を砲台にして
思い切り攻撃しても良い、
などと言った筋違いの正義は、
今後どのように作用していくかを
考えた時、とても不安で恐ろしい。

そしてここに帰結する。

そもそも我々は他人に興味を持ち過ぎたのだ。


本当に周りに頼れる人がいなくて
モラハラやパワハラに悩まされていたり、
死にたくても死ねなかったり、
そう言った事に対して、
昨今のSNSは少しだけ救いになるように思う。


けれど、何かをやらかした人間に対する、
標的発見!みたいな雰囲気は
いつまで経っても僕にとっては不快だ。
そして被害と加害がいとも容易く
逆転しまう構図が、滑稽でならない。


本当にこの先の
他人間への関わりが不安だ。



何もかも、ひとつのテーブルで
収まる話だと思う。

男女間の奢り奢られ論争も、
初デートにサイゼリヤはありか無しか論争も、
本来クソほどしょうもない。

本来何万いいねもつくような
議題では無い。


繰り返しになるが、
他人の話題に興味を持ち過ぎだし、
疑似的な被害感情を受け過ぎているんだ僕たちは。


そんな話題は居酒屋で複数人で、
ガハハと盛り上がれば良い。


なにもSNSで大衆性を帯びた、
世相を斬るような発言なんてなくて
しなくて良く無いか?


それをしたらまた、
傷つく人が出てきて、
それがハラスメントになったり
二次被害が生じ、同じ事が
堂々巡ってしまう。



人間の感情はとても繊細で脆いものだ。



というかね、これを言いたかった。
加害者側はTwitterとか見てねぇんだわ。
不思議なことに。
興味ないんだわ。たぶん。
だから被害者側がこんなに
話題を煽ってもニュースになっても
こんなに話題になっても
なくならないんだわ。


加害者側って住む世界がちげーんだわ。
SNSもテレビも何故か見てねーんだわ。
見てたとしても自覚がない馬鹿なんだわ。
一種のパラドックスですね。
本当に折り合わないし、
分かりあうとするのが間違ってるのかもね。

だからもう、知らんやつの
話題に興味を持つのはやめましょう。
自分の明日を生きましょうよ。

なんて、少し退廃的な結論には
したくなかったけど、
僕が今世間に対して思うのはこんな感じです。

















ご機嫌麗しゅう。


全然更新出来ていなかったので
大体2月〜今日に至るまでを
覚えている範囲で、
振り返っていこうと思います。


あれ?さっきすれ違った人
元バイト先の飛んだやつじゃね?


くらいの感じの振り返りを
見せていけたら最高ですね。





2月は、そうですね、
30代はイキり散らかすを
テーマに掲げていますので、
その風呂敷を優雅に堪能するかのごとく、
初めて白湯(さゆ)を買ったりしました。


セブンでね、売ってますよね。
白湯を買いました。


というかもうセブンイレブンの事を
セブイレとか略しません。


セブンです。
仮にも大阪の都心部で
活動している人間が
セブイレなんていう
野暮ったい略し方をするなんて
ご法度じゃないですか。


その理論で僕は
イナズマイレブンを
イナズマと略していますからね。



筋は通します。


にしても、白湯ね。



これに関しては本当に
イキってると思う。


25歳くらいまでは自らの
健康など顧みずに炭酸ジュースを
たっぷり摂取していたのですが、
そんな自分は見る影もありません。


白湯でまず体内の
むくみを排出したいんです。


そんな美意識が増した2月です。



3月はね、
現在進行形で髪の毛を伸ばしてるんですが
パーマの代償で
髪の傷みがとても気になって、
ヘアオイルとヘアミルクなるものを
購入しましたね。

これも初です。

このヘアオイルにとどまらず
ヘアミルクなどという
訳のわからん美容液を購入する事で
イキる事への造詣の深さみたいなものを
ブーストさせてみたかったんです。


にしても、なんか良い。
ヘアオイルは勿論良い匂いで良いし、
ヘアミルクもなんか良いのでとても良い。

この突如として語彙力が
追い剥ぎにあってしまうくらい、
美容というものは奥が深いです。


さらに3月は62kgくらいの体重を
55kgまで落としたい、という
唐突な衝動に駆られ、
糖質にとどまらず脂質さえも
極力摂取しないという生活を
スタートさせ、59kgまで落ちた時点で
糖質と脂質を同時に摂取しないのは
良くないという目から鱗、ならぬ
考えたら分かるやろ情報を入手し、
さらにそのタイミングで
176cmで59kg!?ほっそ!!
と言った意見を沢山頂いたので、
馬鹿らしくなりダイエットはやめました。


今はお寿司とかモリモリ食べてます。


4月はですね、
さらなる生活スタイルにおける
健康面での欠陥を補うべく
カフェラテを砂糖不使用カフェラテに
切り替えました。

僕が唯一飲み物で砂糖を摂取していたのが
カフェラテなんですね。
だったら、あともう一歩じゃん
という事で、カフェラテを
砂糖不使用カフェラテに替えてみたら
普通に美味しかったので、
これは継続出来そうです。


というかその、白状します。
30代はイキる宣言はですね、
先程から健康が〜とか言ってますけど、
そんな事は二の次で
全て『カッコいい』に紐付いているんですね。



白湯を買うのも、
白湯を持ってる自分カッコよくね?

という発想からなんです。


考えてください。
激甘ジュースを持ってるのと
白湯 を持ってるのでは
かっこよさが一目瞭然じゃないですか。

ジュースを買う人を否定してる訳ではなく、
あくまで自分の美的センスのお話ですよ。


ヘアオイルやヘアミルクを買って
塗りたくる自分、
カッケェよ。なんです。


砂糖不使用のカフェラテを
選んで買う、レジの店員さんへの
カッコよさアピールでもありますね。


アイスやお菓子を滅多に食べないのも
カッコいいからなんです。
自分的に。

すんませんね。ほんと。
こんな性格は恐らく一生治りません。


小学生の時もカチューシャするのが
カッコいいと急に思い立って
付けて学校に行ったら非難轟々で
速攻外したりしましたからね。


そんな感じなんです。




あとこれはご都合主義の権化なんですが
酒は浴びるほど飲みます。
それはもう、はい。

そんなのカッコいい訳はありませんが、
ある程度クズ要素を持ち合わせてる俺もまた
カッコいい、なんですよね。


黙ります。


以上、振り返りでした。












人に対してマイナスな意味での
『変わった』或いは
『変わってしまった』などと言う所感を
持ってしまう時がある。


それは、身近な人から
テレビの向こう側の人間にまで、
対象になるものは多い。


今回は自戒も込めて、
人間がその第3者に対してくだす
変わった という安直な評価に対して
メスを入れていきたい。


『変わる』と言うものはいつだって
相対的な評価だ。
何か比較対象が存在して成立するものである。
つまり、必ずしもその人が変わった訳ではなく、
知らず知らずのうちに、
自分自身が変わってしまっている場合がある。


僕が苦手なのはその短絡的発想だ。
あたかも『アイツは変わってしまった』
『あんな振る舞いをする奴では無かった』
などと言う一方的な感情は、
自分はさもしっかりとした軸の持ち主で、
自分自身が変わっている筈がない、
と言う疑念の無さ、それは
もはや驕りがあるように思える。


つまり要約すると、
まずは己を疑え、と言う事。


先程にも供述した、
『変わった』という観点は
あくまでも相対的なものだ。


その人は、とりたてて何も変わっていない。
自分自身が、違う方向に行っている。

であったり、

向こうは確かに変わった。
自分自身が、ただ取り残されているだけ。

であったり。


また、後者がより厄介なのは
『この人はいつまでもこうあって欲しい』
という極めて主観性の高い理想が
追随しているように思う。


そんな変化のない、
よくない意味での安定性のあるものに、
人は固執してしまうのだ。

極端に人は変化を嫌うし、
変化を怖がってしまう。

自分の変化も、そして周りの変化も、
好きだったものが変化しまう事に対しても。



例に挙げるなら、
僕は中高生の頃
アジアンカンフージェネレーションと言う
バンドに没頭していた。

今でももちろん好きだ。


初期〜中期あたりの、
エモーショナルで文学性のある歌詞が
好きだった。

しかしながら、徐々に作品性は進化し、
サウンド面も歌詞においても、
少しずつ、エモーショナルな
要素が減ったぶん、包容力が増し
歌詞のアプローチの角度が変わっていった。


その時僕はマイナスな意味で
『変わってしまった...』と捉え、
初期アジカンに思いを馳せ
ついには新譜を追う事をやめた。
そんな時期もあった。

(今は新譜が出ると必ず聴く)

アジカンは元々そういう一面も
持ち合わせていた、
その方向性を視野に入れていたのに関わらず
自分がその変化に怯え、拒絶した。
自分自身がただ置いていかれていた。
それだけだ。


では何故置いていかれてしまうのか。



アップデートという言葉がある。
価値観や発信の手段のアップデートが
好きな人は、どんどんアップデートする。

今で言う多様性というものを、
どんどん取り入れる。


アップデートが面倒くさい人は
いつまでもアップデートしない。


その軋轢は、ただの片方の怠慢なのに、
いともたやすく第三者から
『変わった』というレッテルを貼られる訳だ。
これは甚だお門違いである。


あなたは誰かに『変わった』
と言われた事が無いだろうか?
誰かに『変わった』と言った事が
ないだろうか?

そしてそれは、あなた自身が
本当に変わったのか、向こうが
取り残されてしまっているのか、
あなた自身が向こうの変化を
拒絶しているのか、
さてどうだろう。


以上のことから、
僕は安易に人に変わったという
評価をしないようにしている。

自分自身のアップデート力や
洞察力に余念なく生きてから
ようやくくだせる評価だからだ。


ただ、明らかに素行が不良になっていたり
100対0のような相対的な範疇を超えた
世間的な変化の場合は、
それは言ってあげよう。

今回取り上げた変化というのは
機微なものなので、
どうしても抽象的になってしまう。
申し訳ない。
文章力を高めたい。。


とかく、今回の記事は
変化とそれに付随する感覚について。
でした。