昭和16年10月19日, 海軍は山本五十六連合艦隊司令長官の主張を受け入れ、開戦の際には真珠湾の先制攻撃を行う方針を決定した。10月2日の大本営政府連絡会議では帝国国策遂行要領を決定し、武力発動の時期を12月初旬とし、対米交渉が12月1日午前零時までに妥結すれば武力発動を中止することとした。11月26日のハル・ノートに接した日本側は12月1日の御前会議で開戦方針を決定し、2日には作戦開始日を8日とすることに允裁(いんさい)(君主が臣下の申し出を許すこと)を得た。
真珠湾攻撃暗号電報「『新高山登レ一ニ〇八』(ヒトフタマルハチ」の送信が伝えられたのは、依佐美の送信所ほか千葉県の船橋送信所である。なおカタカナで「ニイタカヤマノボレ」は間違いで正確には漢字使いであり、「新高山登レ一ニ〇八」である。電報は1941年12月2日に岩国市柱島沖合の旗艦「長門」から有線で東京霞ヶ関の東京通信隊(東通)に送信され、同所から船橋と依佐美に「中継」された。船橋からは短波と中波が、依佐美からは潜水艦向け超長波が送信されたと考えられている。
依佐美送信所(よさみそうしんじょ)
愛知県碧海郡依佐美村(現在の刈谷市高須町山ノ田1番地)に建設された、長波の使用を主とした無線送信所であった。1929年(昭和4年)に運用を開始したが、戦後は米軍に接収された。1993年(平成5年)、米軍より閉鎖する旨の通告を受け、翌1994年(平成6年)に日本に返還されたのに伴い、アンテナ鉄塔、建物は解体され、その役目を終えた。
海軍無線電信所船橋送信所
この施設は日露戦争後、聯合艦隊の行動範囲の拡大に伴い東京近郊の東葛飾郡船橋町周辺にある塚田村行田(現船橋市行田)に設置された海軍の無線電信施設で、大東亜戦争(太平洋戦争)の時に真珠湾攻撃部隊に「ニイタカヤマノボレ一二〇八」の電文を送信した事で一般に広く知られている。船橋送信所が艦船へ向けて短波・中波を送信し、依佐美送信所が潜水艦に向けて超長波を発信した。
ハル・ノート(下記は“世界史の窓”からの引用です。)
1941年11月26日、アメリカ国務長官ハルは、日米交渉におけるアメリカ側の提案を示した。それは「ハル・ノート」と言われており、日本にとって厳しい内容であった。まず、両国交渉の原則的な前提として、
1)一切の国家の領土保全および主権の不可侵原則。
2)他の諸国の国内問題に対する不干渉原則。
3)通商上の機会および待遇の平等原則。
4)紛争の防止および平和的解決のための国際調停に対する準拠原則。
の四原則をあげ、今回の交渉で日本側が譲歩すべき具体的な点として、次の四点を挙げた。
1)上記四原則の無条件承認。
2)仏印および中国からの全面撤兵(ここでいう中国に満州国を含むかどうかは明記されていない)。
3) 重慶政府=蒋介石政権だけを認めること。
4) 日独伊三国同盟の無効化。
ハル・ノートは11月26日に日本側に手交されたが、日本側は御前会議で11月末日までに交渉がまとまらなければ開戦に踏み切ると決定していたのであって、ハル・ノートの条件を知って開戦を決断したのではなかった。想定通りの回答であったので、予定通り開戦に踏み切った。なお、「アメリカ政府には、三ヶ月の休戦期間を設け、石油輸出の一時解禁と南部仏印からの撤退を条件に交渉を継続する一案もあったが、これは蔣介石政府とイギリスに強く反対されて取り下げ、代案としてハル・ノートが浮上した」と野村大使の報告は述べている。日米交渉にも日中戦争が強く影響していた。
太平洋戦争の起源
太平洋戦争は、明治以来の日本の近代化の総決算ともいうべき深い歴史的根源をもつ大戦争であった。日本は日清(にっしん)・日露戦争によって台湾、朝鮮、南樺太(からふと)を植民地とし、南満州(中国東北)を勢力範囲化して、アジアにおける唯一の帝国主義国として自立するに至った。さらに第一次世界大戦では、ドイツ領南洋諸島と中国の山東(さんとう)半島を占領するとともに、中国に二十一か条要求を突き付け、山東省のドイツ旧権益の継承などを認めさせた。また、ロシア革命後の1918年(大正7)にはシベリアに出兵して、東シベリアに傀儡(かいらい)国家を樹立しようとした。戦後のベルサイユ会議は山東に対する日本の要求を認めたが、これに反発して中国では五・四運動が起こり、シベリア出兵も頑強なソビエト側の抵抗によって失敗した。朝鮮でも独立を要求する三・一独立運動が起きた。
日本の大陸侵略が、朝鮮や中国の民衆の持続的な抗日運動の展開やソ連の強国化によって停滞をやむなくされたことは、第一次世界大戦後の東アジア史の重要な特徴であった。この時期に太平洋戦争の一因である日米対立も発展した。日露戦争後、満州問題、日本人移民排斥問題などをめぐり日米関係は悪化していた。とくに第一次世界大戦中の日本の強引な大陸進出は、アメリカをはじめとする列国の反感を買っていた。戦後アメリカが極東市場に復帰すると、対立は軍事的にも発展し、両国間の海軍軍備拡張競争が深刻となった。アメリカは1921~1922年にワシントン会議を首唱して、軍縮条約を成立させるとともに、九か国条約によって、アメリカの主張する原則である門戸開放・機会均等などを中国進出の原則として認めさせた。また四か国条約と引き換えに日英同盟は廃止され、山東省の諸権益も中国に返還された。ワシントン体制は、経済的に優越したアメリカの指導権の下に日本の中国進出を経済的分野に限り、またその活動範囲を西太平洋に限定して極東での列強対立の緩和と帝国主義支配の安定化を図ろうとするものであった。
ワシントン体制の下で、列国との協調、中国内政不干渉を掲げる幣原(しではら)外交が行われ、1920年代の日本の外交は、ほぼ米英との協調派の主導下にあった。しかし中国における国民革命の発展、金融恐慌、世界恐慌の波及に伴う昭和恐慌などの内外情勢は、中国大陸への膨張と対米英抗争を主張する勢力の急激な台頭を招いた。1927年(昭和2)に成立した田中義一(ぎいち)内閣の対華武力干渉政策はその最初の現れであり、太平洋戦争を侵略戦争とし、日本の戦争犯罪を裁いた東京裁判(極東国際軍事裁判)は、日本の侵略計画の発端をこの内閣の対華政策に置いている。1931年の満州事変も、軍部を中心とするこの勢力の始めたものであった。
満州事変は、15年に及ぶ中国侵略戦争の発端となった。同時に国内では、軍部の「革新派」を中心とするファシズム運動の進展するきっかけとなり、軍部はしだいに政治の指導権を握っていった。「満州国」建設後、軍部はさらに「防共」を大義名分とする華北分離工作を進め、華北に勢力を扶植していったので、中国では華北を中心に抗日救国の動きが全国に広がっていった。その結果、西安(せいあん)事件(1936年12月)を契機に、1937年9月国民党と共産党の提携(第二次国共合作)が成立し、抗日民族統一戦線が結成され、全民族的な抗戦体制が初めて成立した。この年7月の盧溝橋(ろこうきょう)事件に始まる日中間の全面戦争が長期化し、1938年末ごろから戦線が膠着(こうちゃく)していった最大の理由は、このような中国側の主体的状況の画期的な転換にあった。日本の支配層はこのような情勢を認識できず、国民党政府の切り崩しや、ドイツ、イタリアとの結び付き強化など、姑息(こそく)な事変処理策によって戦争の行き詰まりを打開しようとした。その一方、南方に進出して戦争を継続するうえで必要な石油その他の資源を獲得しようとして戦線をずるずる拡大し、太平洋戦争の悲劇に帰結するのである。
英米との対立激化
このような日本の動きは、列国との対立をいっそう激化させた。満州事変は中国の提訴によって国際連盟の問題となったが、1933年(昭和8)には日本は連盟を脱退する一方、1936年の日独防共協定(翌年イタリアが加入)の締結を機として、独伊とともに枢軸陣営結成に向かった。アメリカは満州事変に際し、日本の侵略の結果に対し不承認を表明したが、やがて1933年にはソ連を承認し、日本に対抗する新しい勢力均衡を東アジアにつくりだそうとした。日本がロンドン軍縮会議から脱退した1936年からは、日米の建艦競争が無制限に行われることになった。日中戦争の開始は、英米と日本との関係を緊張させ、1937年10月にはルーズベルト米大統領が、侵略者を隔離すべきだと演説するまでになった。しかし英米は、中国に対する具体的な援助には慎重であった。一方、日本の膨張にはソ連に対抗する一面もあり、1938年に張鼓峰(ちょうこほう)事件、1939年にはノモンハン事件と日ソ間に大規模な武力衝突も起こった。そこでソ連は、中国の抗日戦に対し当初から積極的な援助を行った。しかし英米の一部には、日本の侵略がソ連の方向に向かうことを期待する空気もあり、日本に対抗する列強の連係は不十分であった。日本の側でも、重要な戦争資材の供給を英米、とくにアメリカに依存している関係上、英米関係を重視する勢力が宮廷や財界をはじめ支配層の有力な部分にあった。しかし日本の占領地域と戦線が拡大するにつれて、英米の在華権益は大打撃を受け、商品や資本も中国市場から後退した。対立が深まるのは不可避であり、英米の対華援助もしだいに強化された。1939年になると、イギリスはヨーロッパ情勢の急迫から、その対華政策を後退させざるをえなかったが、それはかえってアメリカの対華政策を積極化させる契機となり、日米対立がいまや前面に現れることとなった。アメリカはこの年7月、日米通商航海条約の破棄を通告し、いつでも戦争資材の対日供給を停止して、日本を圧迫できる体制をとった。このような国際関係の緊迫のなかで、防共協定を強化して三国軍事同盟を締結しようとする動きも発展した。その推進力であった陸軍は対象国としてソ連を考えていたが、8月独ソ不可侵条約の成立によって実現を阻まれ、無為無策のうちに第二次世界大戦の勃発(ぼっぱつ)を迎えなければならず、この頃には陸軍も中国からの撤兵を考慮せざるをえない状況となった。(上記は“ジャパンナレッジからの引用です。)
そして真珠湾攻撃への道(1937-41年)
上記に記されているように、1937年から1941年にかけて、エスカレートする日中間の対立は、米国と日中両国の関係に影響を与え、最終的には米国を日独との全面戦争へと向かわせる一因となった。当初、アメリカ政府高官は中国の動向を両義的な目で見ていた。一方では、中国との長年の友好関係を意識して、日本の中国東北部への侵攻や日本軍国主義の台頭に反対していた。他方、ほとんどのアメリカ政府高官は、日本との戦争に値するような重要な利益は中国にはないと考えていた。さらに、中国国内では国民党と共産党が対立していたため、米国の政策立案者たちは、このような内部分裂国家を援助して成功するかどうか確信が持てなかった。その結果、1937年以前に強い態度で臨むことを勧める米国高官はほとんどおらず、米国は日本を刺激することを恐れて、中国を援助することはほとんどなかった。1937年7月7日、中国軍と日本軍が北京近郊の盧溝橋で衝突し、両国が全面戦争に突入した後、米国が中国に援助を提供する可能性は高まった。
盧溝橋事件とは
1937年7月7日夜,中国,北京南西郊の盧溝橋付近で,演習中の華北駐屯日本軍一木大隊の中隊に対して十数発の射撃がなされたことを契機に,日本軍と冀察政権 (政務委員会) 第 29軍との衝突に発展した事件。日中戦争の発端となった。中国では「七七事件」として知られる。最初の十数発の射撃が日本側の謀略か抗日勢力によるものかは不明とされている。 11日未明には一応現地で停戦が成立した。しかし,当初不拡大方針を声明していたにもかかわらず,第1次近衛内閣は 11日内地3個師団の動員を決定,軍部内でも,拡大派と不拡大派が激しく対立するなど矛盾をはらみつつ戦線は次第に拡大し,同 28日の北京,天津総攻撃の開始をもって全面的な戦争に突入した。中国側ではこれを契機に第2次国共合作がなり,抗日の機運が高まった。
南京虐殺事件とは
南京事件とも。日中戦争における国民政府の首都南京攻略作戦で,日本軍がおこした暴行虐殺事件。柳川平助中将の第10軍と松井石根(いわね)大将の上海派遣軍が,1937年(昭和12)12月13日に南京を占領。両部隊の先陣争い,上海戦からの連戦による部隊の士気低下,中国側の予測よりも早期の退却,戦争法規の無知などが原因で,大規模な捕虜虐殺・放火・略奪・強姦などが行われた。当時から列国の宗教団体などを通じて世界中に報じられ,日本政府首脳部も情報を得ていたが,その規模の大きさと赤裸々な実態については極東国際軍事裁判ではじめて明らかにされ衝撃をよんだ。被害者の実数は数万~四十数万人まで諸説ある。日本軍が海岸を掃討し、首都の南京に押し寄せるのを米国が見守る中、民意は中国側に傾いた。日本軍が南京からアメリカ市民を避難させていたU.S.S.パナイ号を爆撃し、3人が死亡したことで、日本との緊張は高まった。しかし、アメリカ政府は衝突を避け続け、日本からの謝罪と賠償を受け入れた。1940年まで、日米間は不安な停戦状態が続いた。
米国による日本への圧力
1940年と1941年、フランクリン・ルーズベルト大統領は米国の対中援助を正式に決定した。アメリカ政府は、日本に対する規制を徐々に強化し始めたため、中国政府に対して戦争物資購入のための信用供与を行った。米国は、中国の抵抗によって泥沼化した日本軍が必要とする石油、鉄鋼、その他の物資の主要供給国であったが、1940年1月、日本は米国との既存の通商条約を破棄した。これは直ちに禁輸措置につながるものではなかったが、ルーズベルト政権が日本への軍事物資の流入を制限できるようになったことを意味し、これをテコに日本に中国への侵略を止めさせることができるようになった。
1940年1月以降、アメリカは、より大きな債権とレンドリース・プログラムを通じて中国への援助を拡大する戦略と、日本とのすべての軍事的に有用な品目の貿易の禁輸に向けた段階的な動きを組み合わせた。日本政府はこの2年間に、状況を悪化させるいくつかの決定を下した。軍部を統制することができない、あるいは統制する気がない日本の政治指導者たちは、1940年8月に「大東亜共栄圏」を樹立し、より大きな安全保障を求めた。これにより、日本は欧米帝国主義諸国をアジアから追い出す意向を表明した。しかし、この日本主導のプロジェクトは、日本の経済的・物質的な豊かさを高め、欧米からの物資に依存しないようにすることが目的であり、長い間被支配者であったアジアの人々を「解放」することが目的ではなかった。実際、日本は軍事的征服と支配のキャンペーンを展開しなければならず、中国から撤退するつもりはなかった。同時に、欧米諸国とのいくつかの協定は、日本をアメリカにとってより脅威的な存在に見せるだけだった。
戦争への突入
1940年4月、ドイツは電撃戦によって北欧、ついで西欧作戦を展開、6月17日には早くもフランスを降伏させた(その直前の6月10日イタリア参戦)。ドイツはさらにイギリス本土に激しい空襲を加えたが、10月には英本土上陸をあきらめ、ひそかに対ソ戦準備を始め、バルカン半島に進出した。ヒトラーの西欧征服は日本の支配層を眩惑(げんわく)させ、ドイツの支配下に置かれたフランス、オランダの植民地の奪取を中心に東南アジア一帯に武力南進を行おうとする機運を一挙に高めた。7月22日に成立した第二次近衛文麿(このえふみまろ)内閣は「大東亜新秩序の建設」を呼号し、仏印(フランス領インドシナ)進駐など武力南進の具体的措置を定めるとともに、対米戦の場合を考慮して戦争準備に着手することとした。日本は1940年9月27日にドイツ、イタリアと日独伊三国同盟を結び、ヨーロッパとアジアの紛争を結びつけた。これにより中国は、ファシズムとの世界的な戦いにおいて潜在的な同盟国となった。
そして、近衛内閣の松岡洋右(ようすけ)外相はさらに翌1941年(昭和16)4月、日ソ中立条約を結び、、日本の軍隊が、米国がより大きな権益を持つ東南アジアに進出することを明確にした。ヴィシー・フランスとの3つ目の協定により、日本軍はインドシナに進駐し、南進を開始した。アメリカはこの脅威の高まりに対し、日本の外交官との交渉を一時的に停止し、日本への輸出を全面的に禁輸し、アメリカの銀行にある日本の資産を凍結し、ビルマ街道を通って中国に物資を送るという措置をとった。米国が対日禁輸措置を強化した後、交渉は再開されたが、ほとんど進展はなかった。ワシントンの外交官たちは何度か合意に近づいたが、米国内の親中的な感情によって、日本の中国からの撤退を伴わない解決に達することは難しく、そのような条件は日本の軍部指導者たちにとって受け入れがたいものであった。禁輸措置の結果、深刻な物資不足に直面し、退くに退けず、米国高官がこれ以上の交渉に反対していることを確信した日本の指導者たちは、迅速に行動しなければならないという結論に達した。
三国同盟に加えてアメリカを圧伏する体制を整え、対米関係を有利に打開しようとした。この間、国内的にも1940年10月には大政翼賛会を発足させ、強力な権力的統合、国民の自発的支持調達など、総力戦の遂行に不可欠な国内体制の整備に努めた。しかしこれらの動きはかえってアメリカを刺激し、経済制裁や太平洋方面の軍備強化に踏み切らせ、イギリス、オランダもこれに倣った。日本はこれを日本に対するABCD包囲陣(アメリカ、イギリス、中国、オランダ)の結成と宣伝し、日本とこれら三国との関係は緊張した。この緊張を解決するため、翌1941年4月から日米交渉が開始されたが、交渉は難航した。
1941年6月22日、ドイツは無通告で対ソ戦を始めた。新事態に対処するため7月2日御前会議が開かれ、南進態勢をいっそう強め、そのためには対米英戦争も辞せずとした。対ソ戦についても、独ソ戦の成り行きが有利となれば開戦することとした。この決定に基づいて南部仏印進駐が行われるとともに、関特演(関東軍特種演習)の名のもとにソ満国境に大軍が集中された。しかしこの動きはアメリカの強い反発を招き、アメリカは在米日本資産の凍結、ついで石油の対日輸出全面禁止に踏み切った。さらに米大統領はチャーチル英首相と会談、8月14日大西洋憲章を発表、枢軸諸国の侵略と対決する立場を明らかにした。すでにこの年3月、アメリカは武器貸与法を制定し「民主主義の兵器廠(しょう)」となることを明らかにしたが、ソ連にもこれを適用、反ファシズム連合国の一員としての立場を明確にした。
アメリカの石油禁輸により日本は石油の備蓄を食いつぶしてじり貧状態となることが予想され、このような破局を避けるため開戦を急ぐべきだという主張も海軍の強硬派を中心に強まった。9月6日の御前会議は、10月下旬を目標に対米英戦の準備を「完整」すること、日米交渉が10月上旬になっても目途のつかないときには開戦決意をすることに決めた。10月に入ると主戦派の東条英機(ひでき)内閣が成立した。日米交渉はなお続いたが、中国からの撤兵問題や三国同盟の解消問題をめぐって停滞した。こういうなかでアメリカの決意も固まり、11月26日には強硬なハル・ノート(前述)を提出してきたので、交渉は行き詰まった。すでに11月5日の御前会議で、12月上旬を武力発動の時機と定める決定が行われ、陸海軍はハワイおよび南方作戦準備のため進発していたが、12月1日の御前会議は最終的に開戦を決意、かくてその一週間後、太平洋戦争は開始された。
日米開戦の決定
ハル・ノートは、アメリカ側は最終提案とはいわず、交渉の素材としての一提案にすぎないと伝えたが、日本側はこれを最後通告と受け止めた。アメリカ側もこの提案を日本が受け入れなければ開戦はやむを得ないと考えていたようだが、アメリカとしてはできるだけ時間を稼ぎ、開戦となった場合には日本側にまず攻撃させるよう仕向けることが合意されていた。ハル自身も27日にスティムソン陸軍長官に電話して「私は交渉から手を洗った、あとは君とノックス(海軍長官)の仕事だ」と伝えた。
ハル・ノートを受けとった東郷茂徳外相はもはや手の打ちようもないと感じ、日米交渉は打ち切りとした。12月1日に御前会議が開催され、アメリカ・イギリス・オランダに対する開戦を決定、翌2日に統帥部はすでに準備を整えていた陸海軍司令官に、12月8日開戦を意味する「新高山登レ一ニ〇八」の電報を打電した。
日本軍が開戦に踏み切った最大の理由
「アメリカなどによる経済封鎖によって鉄、石油などの資源が入ってこなくなり、特に石油備蓄は後最大2年分しかない。それを打開するにはボルネオ、スマトラなどの油田を獲得するしかない。東南アジアへの海軍による武力進出はアメリカ海軍に妨害される恐れがある、それを事前に排除するためにハワイのアメリカ海軍基地を破壊しておく必要がある。」というものだった。この戦略は、連合艦隊司令長官山本五十六がすでに1939年9月以来、検討を重ねていた。山本はアメリカとの戦争はできる限り避けなければならないが、開戦となればハワイ奇襲しか勝算はないと考えていた。しかし、よく知られるように山本は戦えるのは2年間であり、それ以上戦うことになれば敗戦となるだろうと予測していた。連合艦隊はこの戦略に基づいて、すでに開戦の準備を進めており、ハワイを奇襲する航空艦隊は、南雲忠一の指揮のもと、11月22日に千島の択捉島に集結し、26日、つまりハル・ノートが提示された日にハワイに向けて出撃していた。日本軍はハル・ノートの内容の如何にかかわらず開戦を決意していた。