ようやく卒論を提出できました。
皆様のおかげです。本当にありがとうございました。

2年前に思い立って、大学に入ることにした。有言実行できない自分への戒めのようなものだった。
どうせやるならと、少なからずその時の自分が興味があるものにしようと思って哲学にした。
人間はなんでこうも面白いのかな。そんな単純な理由だった。
でも、やってみて、どうでもいいな(笑)とも思った。英語にすればよかったなとも思った。
それほど興味もなくて、好きでもなかった。
それが、自分の本当の気持ちだと気づいてなおさら切なかった。
人に興味がないような、面白いものから遠ざかっているような気がした。

ナンダカンダ、卒論は大学に入る時の熱みたいなもの、自分が大学で哲学を専攻したこと、それに対しての答えみたいなものになった。ひどくダサくて、出した今も心残りだ(苦笑)。

ただ、論文も終わってちょっとすがすがしい。
今週末の試験が通れば、卒論の面接を通れば、晴れて来年の春には卒業!
と夢見るこのごろである。

そんな束の間に、がっつりと「ほぼ日」を見る。
「おくりびと」「健康手帳」、そして、ズーニーさんの「おとなの小論文教室」。
面白いなぁ。こういうのやりたいなぁとしみじみ。
で、「おとなの小論文教室」。論文を書いた後でみるには、少々滅入るわけで(笑)。
あーすればよかった、こーすればよかったと反省しきり、の中で、こんな言葉に引っ掛かった。

「私は『自分に合った答え』を探そうとする人が好きだ」

同感。
論文もそれなりに自分に合った答えになったから、別にいっか!って気になった。

「でも私は、自分の経験や実感のなかから、自分の答えを模索していくことに自由を感じる性分だ」

こちらも、同じ。
「絶対的な答えをもとめるひとは宗教を歩む」「それでも自分にはどうしても、人間の存在を超えたところにある絶対的な答えを信じて身を委ねるということができなかっ
た」とも書いてあったけど、「親鸞」をテーマに卒論をかいても、やっぱり、こういう「人間の存在を超えたところにある絶対的な答え」にしっくりできないんだよなぁ
と。

だから、自分が自然に行き着く思いを大切にするってところと、人に対してもそれは然りということと、とはいえ人は絶望も知るわけで。でもそうした自分に身をゆだねるってこと、つまりはどうしようもなくても「これでいいのだ」になんだなっていう、帰着になりました。

あ~、やっぱこれちゃんと書けたのかなぁ。いまさらになって不安。A型だもんでー。