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八月十八日の政変に敗れ京都を追われた長州藩では、高杉晋作が身分に関わらず広く人材を集め奇兵隊を創設、表向きは幕府に恭順を装いながら来るべき反抗の準備を進めます。また久坂玄瑞、桂小五郎らは密かに京都に潜入し、長州派の公家と連絡を取り合っていました。
1864年8月、長州藩家老福原越後、益田右衛門介、国司信濃らに率いられた長州藩兵千数百名が京都に入ります。彼らは「藩主の冤罪を天皇に訴える」と称し御所に迫りました。蛤御門は会津藩が守っていましたが、御所に入れろ入れないで押し問答になり長州兵が強行突破しようとしたことから戦闘になりました。御所周辺の各所で長州兵と幕府方が戦闘に突入、多勢に無勢で長州兵は敗れ敗走します。絶望した久坂玄瑞は自害、桂小五郎は行方をくらましました。
容保は、御所を守った功績で孝明天皇より御宸翰(ごしんかん 天皇直筆の文書)を賜りました。これは容保の功績をたたえるとともに今後も皇室を守るよう願った内容でした。感激した容保は御宸翰を大切に保管し生涯誰にも見せなかったそうです。
さて長州藩の暴挙は幕府を怒らせました。幕府は孝明天皇を動かし長州征討の勅命を賜ります。最初征討総督には松平容保が推されたそうです。しかし孝明天皇は容保が京都を離れるのを好まれず沙汰止みになります。結局征長総督には尾張藩前藩主徳川慶勝が任命されました。動員された兵力は35藩15万人にも及び1864年11月には長州国境に展開します。
長州藩では、幕府の大軍を見て動揺が起こり恭順派の椋梨藤太らが実権を握りました。禁門の変の責任者として福原ら三家老、四参謀を斬り首を差し出します。高杉ら勤皇派を粛清しようとしますが、肝心の高杉は蓄電しました。征長軍側でも参謀の薩摩藩西郷吉之助(隆盛)らが武力討伐に反対したため長州藩の恭順を受け入れ撤退しました。これが第1次長州征討です。
ところが、長州藩内では椋梨に解散を命じられた奇兵隊など諸隊が反発、高杉晋作は奇兵隊らを説得し下関功山寺で挙兵しました。1864年12月の事です。功山寺決起はわずか84名でしたが、負ければ命がないので必死に戦います。椋梨率いる俗論派は討伐軍を送りますが、戦意に欠けクーデター軍に次々と敗退しました。
戦は勢いと言いますが、あっという間に高杉率いるクーデター軍は萩城を掌握、椋梨ら俗論派を処刑し藩の実権を握ります。ここに但馬に潜伏していた桂小五郎が帰還、長州藩は藩を挙げて幕府との戦いを決意しました。桂は軍学者村田蔵六(大村益次郎)を抜擢し長州軍の全権を任せます。
また土佐浪人坂本龍馬率いる亀山社中を通じてミニエー銃4300挺、ゲベール銃3000挺を購入、厳しい軍事訓練を施し来る日に備えました。一方薩摩藩では、このままいくと幕府が復権してしまうとの危機感から密かに長州藩に接近します。
孤立無援だった長州藩も、恨みを忘れ実利のために薩長同盟を結びました。この動きは極秘に行われたため会津藩は最後まで気づかなかったそうです。1866年1月、幕府の要求をのらりくらりと躱す長州藩に幕府は業を煮やし第2次長州征討が決まりました。しかし、第1次の征長総督だった尾張徳川慶勝は総督就任を拒否します。幕府は仕方なく山陰道石州口の総督を紀州藩主徳川茂承(もちつぐ)、九州小倉口を老中小笠原長行(ながみち)など各方面を分担して担当させることになりました。
迎え撃つ長州藩ですが、蘭方医で西洋の技術にも明るい村田蔵六は稀有の存在でした。彼を見出した桂小五郎の慧眼だったとも言えます。西洋の兵学書を読み込み戦術や軍事技術を熟知した村田は、最新式の装備をそろえ近代軍隊の教練を長州軍に施します。これに対し幕府軍は、幕府歩兵隊こそ最新鋭の装備を持っていましたが、大半の藩が火縄銃など戦国時代さながらの装備で、発射機構をマッチロック式からフリントロック式(燧石式)やパーカッションロック式(雷管式)に改めだけのゲベール銃を最新式と有難がる始末でした。
長州軍が主力小銃として使ったミニエー銃は、同じ前装式ながら銃身にライフリングが施されており椎実弾を発射しました。ゲベール銃に比べ有効射程で5倍近く(100mに対し500m)、命中率も段違いです。
最新式の装備に最新の西洋の軍事思想、運用を叩きこまれた長州軍と幕府軍では勝負が見えていました。当時長州軍の兵力は4000人から7000人くらいだったと言われますが、戦意の低い幕府軍12万人を圧倒したのはこのような差があったからでした。
第2次長州征討は7月20日14代将軍家茂が大坂城で病没したことで有耶無耶になります。この戦いの敗北でこれまで従っていた各藩は幕府を見限りました。小倉口で戦っていた肥後藩、福岡藩など勝手に撤兵する藩が続出します。そしてこれを幕府は咎めることもできませんでした。
薩摩藩は、薩長同盟に従い長州征討を妨害するとともに密かに朝廷を動かし長州藩の朝敵撤回の運動を始めます。徳川15代、最後の将軍に就任したのは一橋慶喜でした。徳川幕府の運命、そして京都守護職松平容保と会津藩の運命はどうなるのでしょうか?次回、鳥羽伏見の戦いを描きます。