ナポレオンのロシア遠征失敗は各国に大きな影響を与えます。中でもプロイセンにおいて顕著でした。ここでチルジット条約(1807年)以降のプロイセンについて述べます。
チルジット条約はプロイセンにとって国土と国民の半分を奪う過酷なものでした。国軍は解体し、一気に二流国に転落したのです。しかしプロイセン国民は諦めていませんでした。まず国軍はシャルンホルスト、グナイゼナウが中心となって改革を進めます。徴兵に例外の多かったフランスよりもさらに徹底して国民軍を建設しました。
国民皆兵を維持するためには旧態依然とした身分制社会では駄目で、国民平等と国民の政治への参加が達成されなければなりません。これはシュタインやハイデルベルクなど少壮官僚が担いました。
さらに国民運動家フィヒテが「ドイツ国民に告ぐ」を記してプロイセン国民のナショナリズムを煽ります。プロイセンはまったく新しい国に生まれ変わろうとしていました。
それにしても国軍壊滅からわずか6年弱で、フランスに対抗しうる国民軍を建設したシャルンホルストの手腕は恐るべきものでした。その自信を背景に1813年3月、プロイセンはフランスに宣戦布告します。一方、フランス軍はロシア遠征の大敗でナポレオン挙兵以来の有能な兵士がいなくなっていました。新たに徴募した兵士は訓練もままならず相対的にフランス軍の力は落ちていたと言えます。
プロイセンはブリュヘルを国軍総司令官、シャルンホルストを参謀総長、グナイゼナウを先任参謀に任命し、フランスに当たりました。1813年5月2日、リュッツェンの戦いでシャルンホルストは脛を撃たれて負傷してしまいます。しかしその傷をおしてオーストリアを味方につけるためウィーンに向かいました。6月28日、プラハで傷が悪化し敗血症になったシャルンホルストは亡くなります。享年57歳。
後任の参謀総長にはグナイゼナウが就任しました。国王フリードリヒ・ウィルヘルム3世はシャルンホルストの生前の功を感謝しベルリンに彼の彫像を立てさせます。
シャルンホルストの作戦計画は、第6回対仏大同盟として結実しました。イギリス、オーストリア、ロシア、スウェーデンがこれに加わりナポレオンを追い詰めます。といってもやはり野戦ではナポレオンに一日の長がありました。連合軍は、個々の戦闘では敗北しても戦略的にナポレオンのフランス大陸軍を追い詰めて行きます。特にナポレオン不在のスペイン戦線は絶望的で、ウェリントン率いるイギリス・ポルトガル連合軍にスペイン民衆のゲリラが加わり国王ジョゼフをスペインから叩き出すほどでした。
そしてドイツにおいても決定的な戦いが始まろうとしていました。8月26日から27日にかけてのドレスデンの戦いに勝利したナポレオンは、ここで連合軍の息の根を止めるべくザクセンの首都ライプチヒに進軍します。これに対しプロイセン軍はライプチヒの北西から、 スウェーデン軍は北東から、オーストリア軍は南から、ロシア軍は南東から大きくフランス軍を包囲するように機動します。両軍の兵力はナポレオン軍19万火砲700門、連合軍36万火砲1500門。
布陣図を見てもらうと分かる通り、ナポレオンらしからぬ布陣です。逆にこの形こそ生前シャルンホルストが待ち望んでいたものでした。包囲することによってフランス軍の強みの一つである機動力を封じる事が出来ます。一方味方は倍の兵力と優勢な火力で敵を圧迫し包囲の輪を縮めるだけです。誰が指揮してもほぼ負ける事のない理想的な作戦でした。
連合軍は、この作戦の総指揮をスウェーデン王太子べルナドットに委ねます。この名前に違和感を覚えた方は多いと思います。そう、彼こそかつてのフランス軍の宿将べルナドット元帥でした。実は1809年スウェーデンで軍事クーデターが起き、対仏強硬派のグスタフ4世アドルフが廃されていました。後を継いだ伯父のカール13世は老齢で、後を継ぐべき王太子カール・アウグストも1810年病死したため、国家生き残りのためにフランスに接近したのです。ナポレオンはスウェーデンを自国の衛星国とすべくべルナドットをカール13世の養子に押し込みました。
ところが王太子になったべルナドットは、スウェーデンの国益を重視する政策を取りフランスから離反します。もともとナポレオンの部下ではあってもナポレオン個人にそれほど忠誠心は持っていませんでした。さらに彼の妻デジレがナポレオンの元婚約者だった事もあり両者の関係はぎくしゃくしていたのです。
ロシアやオーストリアの将軍ではなく、ナポレオン戦術を知り尽くしているべルナドットに総指揮権を与える事もシャルンホルストの計画にあったかもしれません。べルナドットはその期待に見事に応えました。
1813年10月16日、後に諸国民戦争とも呼ばれることになるライプチヒ会戦が始まります。最初は獅子奮迅の活躍を見せていたフランス軍も戦略的に負けていたため次第に追いつめられていきました。激戦は4日間に渡って続き、敗色濃厚のナポレオンは白エルスター河に血路を開き脱出します。この時橋が破壊されていたため、殿軍を務めたポニャトフスキー元帥が溺死するという悲劇まで起こりました。
ポニャトフスキーは、ポーランド人で最後のポーランド王の甥です。ナポレオンが祖国ポーランドを再興してくれると信じ部下を率いフランス軍に参加。死の前日元帥に補されたばかりでした。
フランス軍の死傷者3万8千、捕虜3万。連合軍の死傷者5万4千。ナポレオンの意図としてはライプチヒで連合軍を粉砕し再び欧州に覇を唱える事を夢見ていたと思います。アウステルリッツの再来を期待していたのです。ところが今のフランス大陸軍はかつての常勝軍ではなくなっていました。
ライプチヒ会戦は、ナポレオン戦争の分水嶺とも言える戦いでした。これ以後ナポレオン帝国は瓦解の道を突き進みます。1814年に入ると、戦場はフランス本土に移るのです。スペインからはすでにイギリス軍が侵入していました。局地的には幾度かナポレオンも勝利しますが、もはや大勢が覆ることはなく、3月31日パリが陥落。
4月6日、フランス皇帝ナポレオン・ボナパルトはついに退位、エルバ島に流されます。9月各国はオーストリア外相メッテルニヒの提唱でウィーンに集まりナポレオン戦争後の国際秩序を話し合いました。所謂ウィーン会議です。
フランスでは王政復古が成されルイ18世が即位しました。このまま不世出の英雄ナポレオンは終わってしまうのでしょうか?次回最終回、ワーテルロー会戦にご期待ください。