久しぶりの街道歩きです。梅雨も明けすっかり夏ですねぇ。「伊勢別街道」歩きも前回時間切れで「JR一身田駅」で終わっています。で、その再開です。伊勢別街道は東海道関宿東追分から分かれ、江戸橋で「伊勢街道」に合流する約20㎞の伊勢参宮道です。
我が家を朝一番に出て、ここ「一身田駅」に着いたのが8時半です。
JR紀州本線「一身田(いしんでん)駅」は、明治24年(1891)開業、大正12年駅舎改築。レトロな木造駅舎です。もちろん無人駅です。
駅前に昭和の香りがする近代建築があります。昭和12年頃の建築とか。
前回時間切れで見て廻れなかった「一身田の町並み」と「真宗高田派本山・専修寺」をめぐるわけですが、↓図のように一身田は、専修寺を中心に四方を環濠(㊟)が取り巻きます。その環濠の中に一村を形成するのを「環濠集落」といいます。
古くは縄文時代に始まり、弥生時代に各地に普及し後期には「吉野ヶ里遺跡」など大規模な環濠集落が形成されます。
中世(室町時代)の後半の戦国時代になると戦乱が多発し、農村では集落を守るために環濠をめぐらすところが現れ、今でも各地に点在します。その中心に有力な寺院を置き、規模が大きくなった集落を「寺内町」といいます。中世後期から近世前期にかけ浄土真宗などの各宗派により建設された町です。その多くは環濠で囲まれ、寺院等の宗教施設、宗教関係者の居住域、信仰者の町屋敷で構成されていました。多くは領主から座特権の公認や各種の免除を獲得し、住民による自治が行われており、そういう意味では宗教・経済・政治の統合がなされた中世都市の最も高度な達成形態の一つとされます。
さてここ「一身田」の歴史です。まずその名の由来ですが、奈良・平安時代の制度で、政治上功績のあった貴族に「その人一代の私有が許された墾田」に由来するといわれます。15世紀半ばにはすでにこの地に農村集落が形成されていたようです。
一身田地区が大きく変わったのは、寛政5年(1464)のこと真宗高田派中興の祖・真慧上人が、東海北陸地方の布教活動の中心としてこの地に「無量寿院(現在の専修寺)」を建立したことに始まります。その後栃木県高田にあった真宗高田専修寺が兵火に見舞われ、真慧上人がここに移られたことにより、真宗高田派教団(後日記事にします)の中心となったのです。以来このお寺を中心に一身田は発展します。一身田寺内町がいつ頃成立したか定かではありませんが、天正20年(1592)の記録に「寺内」と残ることから、その頃にはすでに寺内町が成立していたとされます。
16世紀の中頃までは現在の区域の半分足らずの大きさだったようですが、万治元年(1658)津藩二代藩主藤堂高次の四女いと姫が、専修寺の門主に輿入れするにあたり、土地を寄進したことにより、東西500m、南北450mの環濠で囲まれた、現在の寺内町が形成されました。
寺内町の入口は3ヶ所あり、そこには濠に橋がかけられ、内側には門が建てられていました。橋向町から入る門は「黒門」とよばれ、一身田の総門で門の横に番所があったとされます。東から入るのが「赤門」で、西側から入るのが「桜門」と呼ばれ、これらの門は明け六つに開門され、暮れ六つに閉門されたといいます。
㊟堀に水をめぐらせた場合を「環濠」と書き、空堀をめぐらせた場合は「環壕」と書き区別します。
「一身田寺内町」めぐりは、ここ「安楽橋」から始まります。
一身田寺内町を囲む環濠(西側)です。奥に見える橋が、「桜門橋」です。
素敵な町家です。
「まちかど博物館」となっています。
一身田寺内町の西端にあたり、京都方面への出入り口の濠には橋が架けられ、桜門がありました。この門も他の二つ門(赤門・黒門)と同じように明け六つ(午前6時)に開かれ、暮れ六つ(午後6時)に閉められ、町内の治安を守りました。
「仲之町通り」には、駒寄せのある古い町家を残します。
板暖簾(㊟)のある町家も…
㊟地域によっては「軒がんぎ板」とも。
正面に「釘抜門」とその奥に「真宗高田派専修寺・山門」が見えます。専修寺については後日記事にしますが、この釘抜門を境に「寺領」と町家のある「地下」に分けられていました。
「一身田寺内町」の南側を囲む環濠です。
「仲之町通り」を進みます。
いろんな町家が続きます。
黒漆喰塗籠、虫籠窓もいいですね。板暖簾に明り取りの穴の開いたのもアクセントとなっています。明治30年代に建てられた森川邸です。
格子が素敵です。
建ちの高い2階建て袖壁のある町家です。創業200年という老舗和菓子屋です。
町の両側に和菓子屋、荒物屋、衣料品屋が軒を連ねます。
入母屋造の家もあります。
家と家の間にある狭い路地を「せこ」といいます。なんか郷愁を感じますね。
創業は明治元年(1868)、専修寺御用達の御菓子司岡田屋。おたふくまんじゅうが有名だとか。
一身田寺内町めぐりは続きます。 2025/07/18