東海道歩きは、原宿立場跡を過ぎ、どんどん下ります

 

 

 

 

「浅間神社」は、延宝2年(1674)の創建と伝えます。

 

 

 

 

 

時間的にか上下線ともかなりの渋滞です。

 

 

 

道路沿いに石仏などが祀られています。道路拡幅などで集められたのでしょうね。

 

 

 

 

戸塚宿の上方見附を過ぎたところに「(坂下)第六天神社」があります。元々は神仏習合時代に「第六天魔王」を祀る神社として創建されたものだそうで、関東地方(武蔵国)を中心として数多く存在した神社の一つでしたが、明治維新の神仏分離によって改称あるいは他の神社に合祀され数少なくなっています。神奈川県内で残るのは数社だそうで、神世七代の第六代の面足命・惶根命(オモダル・アヤカシコネ)の夫婦神に祭神が替わっているという。

西日本では、この神社は皆無となっているのだそうですが、それは織田信長が篤く信奉し自ら「第六天魔王」と名乗っていたことから、あとを継いだ豊臣秀吉がその神威を恐れ西日本の第六天魔王社をことごとく廃社したためという。

 

 

 

 

「冨塚八幡宮」は、戸塚宿の総鎮守で、祭神は「誉田別命(応神天皇)と冨属彦命」です。源頼義・義家父子がここで野営し、夢で応神天皇の御神託を受け、戦に勝利したことに感謝して延久4年(1072)に創建。山頂の古墳(前方後円墳)は冨属彦命(とつぎひこのみこと)の墳墓とされ「冨塚」と呼ばれており、これが「戸塚」の地名の起こりとなったとか。

 

平安時代関東が「坂東」と呼ばれていた頃、この地域は鎌倉権五景政の領地でした。その家来の一人が戸塚修六友晴で、戸塚一族はここに基盤を置き、代々崇敬してきたことから、全国に散らばる戸塚姓の守護神なんだそうです。

 

 

 

 

少し進むと小さな「八坂神社」がありました。通称「お天王さま」と親しまれている戸塚宿の鎮守です。元亀3年(1572)に、内田兵庫源政親が、牛頭天王を勧請したのが始まりとされ、荒廃するも元禄元年(1688)内田氏の末裔(戸塚宿の本陣の一つ内田本陣当主)により再興された。

 

ここは東海道と鎌倉道が交差する交通の要衝で、高札場がありました。

 

 

 

「明治天皇東幸史蹟」碑が立てられています。

 

 

 

戸塚の中心部に入ってきました。「戸塚宿」の成立は慶長9年(1604)で、保土ヶ谷・藤沢に遅れること3年でした。朝早く江戸を発った当時の旅人の最初の宿泊地でした。また鎌倉への遊山の道、大山詣の分岐宿として人気の宿場だったようです。上方見附と江戸見附の間約2.3㎞の宿場で、天保14年(1843)の記録では、本陣2軒、脇本陣3軒、旅籠75軒、戸数613軒あったそうです。

 

 

 

 

その本陣の一つ「澤邊本陣跡」です。本陣創設時の当主澤邊宗三は、戸塚宿開設を幕府に強く働きかけた功労者でした。

 

 

 

 

「明治天皇戸塚行在所阯」の碑も立ちます。

 

 

 

 

向かい側に、きじま本陣なるものがありますが、料理屋のようで歴史的施設ではありません。今回の東海道歩き3日目(5/17)は、平塚駅から歩き出し、疲れ切って、戸塚宿めぐりも中途半端なんですが、JR戸塚駅までです。

ここから在来線で新横浜まで行って新幹線で名古屋に帰るか、それとも在来線で小田原まで行って新幹線で帰るか…悩むところです。新横浜まで行けばのぞみに乗れますし、小田原だとこだましか停まりません。わけわからなくて小田原経由で帰ったのですが、帰ってから調べましたら、新横浜経由の方が時間的に早く帰れるようでした。まぁこれも勉強です。この日(5/17)の歩数は、48,101歩。歩行距離は35.5㎞でした。

さて次回はいつ歩けることやら…。年内完歩できるのか。

 

 

                       2024/05/17