東海道歩きは、藤沢宿で鈎型に左折し北上します。南下するのは江の島道です。

 

 

 

 

廣重描く保永堂版「東海道五拾三次内」藤澤」…遊行寺の副題がついています。藤沢の町は時宗総本山「清浄光寺」の門前町として生まれ、東海道の宿駅となり発展しました。宗祖の一遍上人が修行のため全国を遊行したことから「遊行寺」とも呼ばれ、このお寺の参詣並びに大山詣、江の島参詣の旅人で賑わっています。手前に描かれている大鳥居は、江の島弁財天一ノ鳥居、大鋸橋(遊行橋)を渡って、奥に描かれているのが「遊行寺」です。

 

 

 

 

 

時宗総本山「清浄光寺」に詣でます。正式には「藤澤山無量光院清浄光寺(とうたくさんむりょうこういんしょうじょうこうじ)」といいます。遊行4代吞海上人の開山以来、遊行上人の住まわれるお寺として「遊行寺(ゆぎょうじ)」の名で親しまれています。

 

時宗とは、一遍上人を宗祖、真教上人を2祖とし、名号「南無阿弥陀仏」を拠りどころとし、念仏に生き念仏を喜びとする浄土門の一流です。

 

大きな黒の冠木門が「惣門(国登録有形文化財)」です。

 

 

 

 

門前両脇に立つ「青銅製燈籠(藤沢市重文)」は高さ2.80m。江戸講中とはじめとする篤志者の寄進によって天保13年(1842)に建立されたもの。

 

 

 

 

「いろは坂㊟」を上ります。往時、開山忌行事期間中は、境内で相撲や見世物小屋の興行が行われ、この坂は人が通行するのも困難なほどの賑わいだったそうです。近年では正月に行われる箱根駅伝のコースにもなっているとか。

 

㊟阿弥陀四十八願にたとえ、いろは四十八文字から「いろは坂」と呼ばれる。

 

 

 

 

本堂前右手に「宗祖 一遍上人像」があります。

 

承久の乱で没落した伊予の国の豪族河野家の次男として延応元年(1239)に生まれます。10歳で仏門に入り大宰府の聖達上人のもとで浄土教を学びます。父の訃報により故郷に帰り半僧反俗の生活を過ごしますが、文永8年(1271)に再出家します。伊予に戻り念仏三昧の日々を送り、空海ゆかりの岩屋寺に参籠し、文永11年(1274)所有していたすべての財産を放棄し一族とも別れ遊行の旅に出るのです。大坂の四天王寺で初めて人々と念仏とを結び付けるため念仏札を配り(賦算という)ながら歩きました。その念仏札には「南無阿弥陀佛 決定往生 六十万人」と書かれていたそうです。そして高野山をへて熊野に向かったのです。

熊野の山道で一人の僧に出会った一遍上人は、念仏札を渡そうとして受け取れないと拒まれ押し問答となります。この出来事で苦悩した上人は、熊野権現にすがるため参籠します。すると熊野権現が山伏姿で現れ…「融通念仏を勧めている聖である一遍よ、なぜ間違った念仏を勧めているのか、あなたの勧めにより人々は往生できるのではない。すべての人々の往生は、十劫というはるか昔に法蔵菩薩が悟りを得て阿弥陀仏となったときから南無阿弥陀仏と称えることにより往生できるのである」…と告げられたのです。

この熊野権現の神勅をうけ、この時を立教開宗としています。そして迷うことなく念仏札配り16年間に及ぶ勧進の旅をつづけたのでした。

弘安元年(1278)九州で2祖となる真教上人と出会い、同行を許してからその人数も次第に増え「時衆」が形成されていきます(㊟中世では時衆、近世では時宗と区別して表記されます)。上人は信州佐久で踊り念仏を始め、次第に形式化され、弘安5年(1282)片瀬の浜(現藤沢市)で踊り念仏がが行われ、これが数日行われたくさんの人々で賑わいました。弘安7年(1284)京に入ります。念仏札を受けようと多くの人が集まり、その後空也上人ゆかりの六波羅密寺を訪ね、踊り念仏を行ったのです。

正応2年(1289)8月10日の朝、「阿弥陀経」を読みながら所持していた書物を焼き捨て「釈尊一代の教えを突き詰めると南無阿弥陀仏の教えになる」と述べ、8月23日漂白に明け暮れた51年の生涯を閉じたのです。

 

 

 

開山は、俣野(藤沢横浜周辺)の地頭であった俣野氏(㊟)の出身である遊行4代呑海上人。その兄である俣野五郎景平の寄進により正中2年(1325)に創建されました。創建以来たびたびの戦火・火災により焼失、その都度復興してきましたが、永正10年(1513)の兵火により全山焼失の際の復興は、約90年後の慶長12年(1607)のことでした。そして寛永8年(1631)江戸幕府より時宗総本山と認められます。

 

㊟俣野氏…桓武平氏の系統で、景久が相模国鎌倉郡俣野で俣野五郎と称したことに始まる。その末裔が「景平」という。

 

 

現本堂(国登録有形文化財)は、関東大震災で倒壊したのち、昭和10年に上棟、同12年に落成したものです。鐘楼(国登録有形文化財)にかかる梵鐘は…

 

㊟鐘楼前の墓は、↓中里理安の墓と理益の墓碑。

 

梵鐘(神奈川県重文)は、延文元年(1356)渡船上人によって完成。戦国時代に入り相模国統一を狙う北条早雲と三浦義同とたびたび争いが繰り返され、この地は戦場となります。それ以降徳川の時代になるまでの約一世紀の間、廃寺同様でした。鐘は北条氏によって小田原城に持ち去られました。江戸時代に入って伽藍が再興され、藤沢大鋸の中里八郎左衛門理安(㊟↑)という人物が小田原城主と談判を重ね、新しく造った鐘と引き換えに古鐘を引き取り寄進したという。

 

 

 

 

「手水舎(国登録有形文化財)」は明治100年記念として復元されたもの。

 

 

 

 

「中雀門(藤沢市重文)」安政6年(1859)建立された現遊行寺でもっとも古い建物で、皇室との深いつながりを示す菊の御紋と徳川家の御葵の紋が刻まれています。

 

 

 

 

 

信徒・団参の方々はこの「御番方」から入ります。関東大震災後に古材を以って再建されたものです。

 

 

 

 

明治天皇はたびたびお泊りになられました。

 

 

                     2024/05/17