東海道歩きは、平塚八幡宮と八幡山洋館をめぐり終え、東進します。

 

 

 

歩道橋上から平塚駅方面を見たところ。

 

 

 

 

国道1号線の東方を見たところ。進行方向です。

 

 

 

旧東海道に合流し、進むと「相模(馬入)川」です。

 

 

 

その相模川に架かる「馬入橋(ばにゅうばし)」を渡ります。

 

 

 

 

廣重描く行書版「東海道五十三次内 平塚 馬入川舟渡しの圖」です。

 

 

 

東海道歩きは、茅ヶ崎市に入りました。

 

 

 

 

 

 

日蓮宗のお寺「上国寺」は、応安年間(1368~1375)の開山。

 

 

 

 

「史跡・旧相模川橋脚」があります。この石柱の所を左(南)に入りますと…

 

 


「木製橋脚遺跡」があります。現在の相模川本流ではなく、その東を流れる小出川の東岸で、大正12年(1923)年の関東大震災にともなう液晶化現象で出現した木製橋脚10本の遺跡です。橋脚は直系約60㎝のヒノキの丸材で、橋全体の幅は約7mです。当時では全国有数の大橋だったようで、国の史跡および天然記念物に指定されています。

 

鎌倉時代源頼朝の御家人であった稲毛重成が亡き妻(北条政子の妹)の供養のため、建久9年(1198)相模川に架橋したものとされ、中世橋梁遺構として高く評価されています。

 

橋脚は池の中で保存されてきましたが、水上に露出した部分の腐食が進行したため、地下で保護され、現在一般公開されている橋脚はレプリカです。

 

 

 

建久9年(1198)12月5日、頼朝がこの橋供養式に出席した帰りに、平家の亡霊に驚いた馬が暴れて川に落ち、病をえて翌年1月に死亡したという説があります。この事件によって相模川の下流部分を馬入川と称するようになったという伝説を残します。

 

建久10年(1199)1月13日源頼朝が世を去りました。享年53才。しかし鎌倉幕府の公式記録とされる『吾妻鏡』には、頼朝が亡くなる前後の記述がごっそり抜け落ちており、謎となっています。

頼朝の死から10年以上たった建暦2年(1212)第3代将軍源実朝が…「供養を遂げた日(橋供養)、これと結縁のため頼朝がおいでになった。その帰りに落馬され、ほどなく亡くなられた…『吾妻鏡』建暦2年(1212)2月28日条…意訳。

 

 

さらに進むと「神明大神」が鎮座しています。寛政年間(1460~1466)創建と伝えますが詳らかではありません。

 

 

 

 

しばらく歩くと「鳥井戸橋」に至ります。鶴嶺八幡宮参道大鳥居のある交差点です。鶴嶺八幡宮は、相模国茅ヶ崎の総社で、源氏が関東進出する際創建した最初の神社だという。ちょっと距離がありそうで参拝は断念。

 

 

 

その橋のたもとに「南湖の左富士之碑」が建立されています。

 

東海道を江戸から京に上る時、富士山が左にみえる場所が2ヶ所ありますが、その1ヶ所がここで、往時の海は今より内陸側にあり、このあたり深く入り込んだ入り江になっていて大変美しい景勝地だったようです。あの浮世絵師・廣重も…

 

 

 

 

「五十三次名所圖會 七 藤澤 南湖の松原左り不二」…を描いています。

 

         

 

          2024/05/17