東海道歩きは「平塚宿」をめぐり、JR茅ヶ崎駅までは歩きたかったのですが、体力および時間が迫ってきて、この日の歩きはJR平塚駅までとし、ホテルの取ってある藤沢に向かいます。

 

 

 

 

 

平塚駅西口近くにある「お菊塚」を訪ねます。

 

 

 

伝承によると、「お菊」は平塚宿役人真壁源右衛門の娘で、行儀作法の見習いのため、江戸の旗本青山主膳方へ奉公中、主人が怨むことあって切り殺されたという。

 

元文5年(1740)2月の出来事であったといい、後に怪談『番町皿屋敷』の素材となったといいます。

 

 

 

「一枚~二枚~」…悲しげな女の幽霊が、夜ごと井戸に現れて皿を数える…という怪談『番町皿屋敷』その逸話となった話は、各地にあるようです。

 

「新形三十六怪撰 皿やしき於菊乃霊」…月岡芳年画

 ㊟月岡芳年…江戸末期から明治期にかけて活躍した浮世絵師。

 

 

江戸時代、舞台となるのは江戸番町にある旗本屋敷。この屋敷には十枚一揃えの皿があり、主である青山主膳はこの皿を大層気に入っていました。

 

しかしある時、下女・お菊が揃えのうち一枚を割ってしまいます。これにより青山から厳しい折檻をうけたお菊は、井戸に身を投げて命を絶ちました。

 

その後この井戸からは、悲しそうな声で「一枚~二枚~三枚~…」と皿を数える声が聞こえるというのです。

 

そうするうちに、誰云うとなくこの屋敷を「皿屋敷」と呼ぶようになり、噂が広まりました。やがて一連の騒動は幕府の知るところとなり、青山家は領地召し上げとなったのだそうです。

 

その後も皿数えの声が一向に止まないのを受けて、読経を頼まれたのが小石川傳通院了誉上人で、いつものように皿数えが始まったので、その声が「九枚~」と数えたあと、すかさず上人が「十枚~」と数えたのです。

 

すると「あれ、嬉しや皿が揃った」という女の声が聞こえ、それから皿を数える声がピタリと止んだというのです。

 

 

 

あの廣重も『お菊と焼き継ぎ屋』を描いています。割れた皿を焼き継ぎ屋さんに直してもらいたくて呼び止めた……こちらは、なんとも漫画チックでユーモアあふれた絵です。

 

 

 

JR平塚駅です。写真は北口駅ビル(昭和48年築)。橋上駅舎となっています。

 

㊟この写真は翌朝5/17撮ったもの。

 

 

藤沢駅を降りて、今宵の宿「スマイルホテル湘南藤沢」に向かいます。前日と連泊です。

この日(5/16)歩いた歩数は39,719歩、29.3㎞でした。

 

 

 

藤沢駅周辺は、あらゆる種類の食事ができます。町に賑わいがあります。昨日は「ヒレカツ定食」を食べたので、蕎麦でも…と思ったのですが、駅構内で湘南鎌倉名物「鯵乃押寿し」が目にとまり、急遽食べてみようと思い購入しました。

 

 

「大船軒」は明治31(1898)5月、大船駅構内で弁当販売を始めたのが始まりです。創業者は富岡周蔵という人物。明治政府要人黒田清隆と親交があり、黒田の薦めでサンドウィッチの販売を開始します。明治32年のことです。日本で最初の駅弁サンドウィッチの誕生でした。ハムは輸入物でしたが人気に追い付かず、ハムの自家製造を思い立ったのです。そしてこのハムが人気となり、本格的にハムの製造を始めることとなったのです。それが「鎌倉ハム」でした。サンドウィッチで成功した大船軒でしたが、各地の駅でサンドウィッチが売られるようになりその特色を失いつつありました。

 

そんな折り、相模湾で獲れる「鯵」に注目、小鯵を関東風に握り、関西風に押して仕上げる「鯵の押寿し」を考案、大正2年4月発売。サンドウィッチに増して人気を博します。今でも「伝承鯵の押寿し」は、当時と全く変わらず、百余年伝統の製法で、今もその味を守り続けています。…大船軒の歴史より。

 

 

 

関東風に握り、関西風に押して仕上げる製法は、食べやすさと美味しさを保つために考えられました。包丁を入れるバッテラとは異なり、食べやすい大きさの鯵の握り寿しを詰め合わせ上から押しています。つぶさず切らず、米一粒一粒を大切にした独特の口当たりが楽しめます。酢飯には「赤酢入りのこだわりの合わせ酢」、鯵には「〆鯵用の酢を使用しているとか。

 

私は江戸前寿しも、関西の押寿しも(特に鯖寿しが)大好物なんですが、この握って押すというのは初めてのものです。

 

それはともかく本当に美味しい。駅弁侮れず…です。

 

 

                     2024/05/16