東海道歩きは大磯宿を過ぎ平塚に向かいます。

 

 

 

 

「化粧坂(けわいざか)」と名付けられた坂を下ります。

 

 

 

「大磯八景」と名付けられた名所の一つです。

 

 雨の夜は静けかりけり化粧坂 松の雫の音はかりして  朝倉敬之

 

 

 

「大磯八景 化粧坂夜雨」

 

斎藤松洲筆。

 

 

 

長~い坂を下りますと…

 

 

 

 

いまは跡形もありませんが、このあたりに「化粧坂の一里塚」があったようです。海側に榎、山側にせんだんが植えられていたとか。

 

 

 

 

坂を下り切ったあたりに「化粧坂の井戸」がありました。伝説によると鎌倉時代の大磯の中心は化粧坂付近にあったそうです。あの虎御前もこのあたりに住み、井戸水を汲んで化粧したのでこの名がついたとか。

 

化粧…けしょうと読むといわゆるお化粧です。古くはけわいと読み、身だしなみを整えるという意味。

 

 

歴史を感じさせる雰囲気のある蕎麦屋さんが…携行食をたべて満腹状態、タイミング悪し。

 

 

 

 

化粧坂を下りきると国道1号線に合流します。

 

 

 

左側に「高来(たかく)神社」があり、奥の高麗山の麓に鎮座します。神武天皇時代の開闢とも伝え、かっては高麗山の山頂に上宮があり、高麗権現社と呼ばれ高麗神社とも。朝鮮半島高句麗が、新羅・唐連合軍に滅ぼされたとき、その一族がこの地に渡来しこの地を開発し創建したとされます。垂仁天皇の御代に神皇産霊尊と瓊々杵尊を祭神とし、安閑天皇の御代に応神天皇と神功皇后が合祀されます。これが高麗権現社の起源です。

 

養老元年に僧・行基が千手観音を祀り、神仏習合の地とし高麗寺の司るところとなります。鎌倉時代には幕府の崇敬も篤く僧坊は24を数え、高麗寺の最盛期でした。徳川家康より寺領百石を賜り、後に東照権現が祀られます。

 

明治維新により高麗寺は廃寺となり、高麗神社と改称。明治30年に「高来(たかく)神社」と改称されました。

 

先に記事にした大磯の遊女「虎御前」もここ(高麗寺)で出家し、生涯を曽我十郎の鎮魂に捧げたという。

 

 

 

 

「大磯八景 高来山晩鐘」

 

斎藤松洲筆

 

 

日本橋まで66㎞となりました。

 

 

 

 

東海道は大磯と平塚の境「花水川」を渡ります。遠くに「大山」が聳えます。

 

 

 

 

花水橋を渡りますと「平塚」です。一里塚が再現(平成の一里塚)されていました。

 

 

 

 

振りかえると「高麗(こま)山」…結構印象に残る山です。

 

 

 

廣重描く保永堂版「東海道五拾三次内 平塚」…縄手道の副題がついています。「く」の字に曲がった道により、丸い形をした高麗山との距離感を出し、富士山を遠くにのぞかせる廣重のサービス精神。勢いよく走る飛脚の姿からも画面の動きが感じられます。

 

 

                       2024/05/16