東海道を進むと、左手に大磯城山公園があります。古くは山城が築かれたこともあるところです。明治時代に三井財閥当主が別荘を構えたところです。園内には横穴式古墳が多数あり、大磯町郷土資料館もありますが、今回はパス。国道1号線をはさんだ南側にある「旧吉田茂邸」を訪ねます。

 

 

 

旧吉田茂邸地区は、県立城山公園の一角となっています。

 

 

 

 

「内門(国登録有形文化財)」は、軒先に曲線上の切り抜きがあり、兜の形に似ていることから「兜門」と呼ばれます。サンフランシスコ条約締結を記念して建てられたことから、別名「講和条約門」といわれているとか。

 

 

 

 

「日本庭園」は心字池を邸宅の正面に配置した池泉回遊式の庭園です。

 

 

 

「旧吉田茂邸」は、明治17年に養父の吉田健三氏が別荘として建てたもので、吉田茂が昭和19年頃からその生涯を閉じる昭和42年まで過ごした邸宅です。

 

政界引退後も多くの政治家が「大磯詣」を行ったとされます。また元西独首相アデナウアー氏や当時の皇太子殿下同妃殿下など国内外の要人が招かれました。吉田茂没後には、大平首相とカーター大統領の日米首脳会談が実施されるなど、近代政治の表舞台としても利用されました。

 

残念ながら平成21年3月、不審火により焼失してしまいましたが、大磯町が再建し一般公開されています。

 

 

 

 

「サンルーム(国登録有形文化財)」は、火災の類焼を免れています。離れのような形で庭に池に張り出して建てられた、当時珍しかった曲面ガラス張りの建物です。

 

 

 

再建された母屋。

 

 

 

 

内部も一般公開されています。

 

 

 

 

 

「七賢堂(国登録有形文化財)」は、元々明治39年に伊藤博文が明治維新の元勲のうちの岩倉具視・大久保利通・三条実美・木戸孝允の4人を祀った四賢堂を大磯の自身の邸宅に建てたものでした。伊藤博文の死後梅子夫人により伊藤博文を加えた5人が祀られ五賢堂となったのです。

昭和35年吉田茂邸に移され、その後西園寺公望が合祀されます。吉田茂死後の昭和43年佐藤栄作によって吉田茂が合祀され「七賢堂」となったのです。

 

㊟正面扁額は、佐藤栄作筆。

 

 

松林を抜け小高い砂丘にのぼると「吉田茂銅像」がありました。ステッキをつき葉巻を持ったあの姿です。昭和58年地元有志によって建立され、講和条約締結の地サンフランシスコの方角に顔をむけて設置されたといわれてます。

 

 

 

吉田茂といえばよく知られるのが「バカヤロー解散」でしょう。昭和28年(1953)3月14日のこと、社会党右派の西村栄一氏との質疑応答中「バカヤロー」と発言したことがきっかけで衆議院解散となった事件です。こう書くと大声で言ったような印象を与えますが、吉田茂は席につきつつ非常に小さな声で呟いたのみで、それを偶然マイクが拾って、気づいた西村が聞き咎め騒ぎが大きくなったのです。

その遠因は当時の通産大臣池田隼人の「貧乏人は麦を喰え」などの問題発言を行い、窮地に追い込まれた吉田が執拗な質問に呟いた一言で解散となったのです。

 

 

 

 

銅像付近からは眺望がすばらしく、相模湾はもとより箱根山、伊豆半島などが一望できます。

 

 

 

 

吉田茂はバラが好きで、バラ園が造られていましたが、駐車場が造られた時、バラ園は大きく縮小されました。自慢は「プリセスミチコ」だったとか。

 

 

                    2024/05/16