東海道歩きは「二宮町」に入りました。

 

 

 

 

町名の由来は、第11代垂仁天皇の時代このあたりは「師長国」と呼ばれ、天皇の勅命により「川匂神社」が創祀され、一ノ宮でした。その後相模国となったときその地位を寒川神社に譲り、相模国二ノ宮となったとされます。

 

 

 

 

道祖神が…

 

 

 

 

旧道と松並木が残っています。この坂を「押切坂」といいます。登り切ると…

 

 

 

「茶屋薬師堂」です。かって川匂神社の本地仏であった大きな薬師仏が祀られていますが、普段は見ることができません。

 

 

 

 

像高261.5mあるという木造薬師如来坐像だという。

 

㊟この画像はお借りしました。

 

 

狭い境内には六地蔵や三界萬霊塔や道祖神・庚申塔なども祀られています。

 

 

 

このあたり小田原宿と次の大磯宿との中間に位置し、「間の宿」として茶屋が並び賑わったところです。その中心だったところが「松屋本陣」で、大名などの休憩所に指定されていました。

 

 

 

「二宮一里塚跡」は江戸から18番目の一里塚でした。

 

 

 

 

国道1号線と並行して旧道が残っています。

 

 

 

 

「等覚院」前に集められた道祖神や石柱。

 

 

 

 

古義真言宗のお寺「等覚院」です。藤の花が有名で、徳川3代将軍家光上洛の折り駕籠をとめて御覧になったという。

 

 

 

 

「吾妻神社」があります。この先の山の中腹にあるようで社殿には行っていません。創建は第12代景行天皇の時代と伝えられます。日本武尊が東征の折り、妃の弟橘媛命が相州走水の海に身を投じて風浪を鎮めたという。後に袖ヶ浦に漂着した笄(こうがい・かんざし)を吾妻山に埋め祭祀したのが始まりとされます。以来北条政子や小田原北条氏の信奉も篤く、領地寄進や社殿造営をしたところです。

 

 

 

 

弟橘媛命の伝承は、袖が流れついたという「袖ヶ浦」とか袖を埋めたという「梅沢(埋め沢)」などの由来する名を残します。

 

 

 

                    2024/05/16