「酒匂川」を渡ります。

 

 

 

「相州酒匂橋富士遠望」と題された古写真です。

 

 

 

 

「酒匂川の渡し」は、東海道の難所の一つで、古くは船で渡っていたようですが、延宝2年(1669)船渡しが禁止されて徒渉り制が施行されます。水嵩の減る冬季は仮橋を架けて往来していましたが、水嵩の増す夏季は肩車・輦台などで川越人足の力を借りて渡っていました。水深が胸あたりになると川留めとなり旅を急ぐ人にとっては大変難儀でした。

 

 

 

 

廣重描く「東海道五拾三次内 小田原(保永堂初摺)」です。酒匂川対岸には北条氏の居城であった三層四階の小田原城が見え、遠くには箱根連山が描かれています。川を渡る旅人の苦労も大自然の中に埋没してしまうほど雄大な風景が広がっています。

 

この浮世絵は爆発的人気を得て版を重ね、そのため改版が行われ、数多くの後摺が残されています。初摺と後摺では、箱根連山の姿や渡渉の人数などかなりの違いがあります。

 

㊟天保前期(1830~36)

 

 

 

 

 

酒匂川を後にして先に進みます。

 

 

 

 

日蓮宗のお寺「法船寺」は、佐渡流罪を赦免された日蓮上人が、時の執権北条時頼に三度目の「立正安国論」を諌暁するも受け入れられず、鎌倉を離れ身延山に向かう途中ここまで辿り着きますが、酒匂川の増水のため渡ることができず、この地の飯山入道夫妻庵室に招かれ接待を受けたのです。然も上人の化導を受け法華経信仰へ改信したという。翌日船を出して酒匂川を渡された法労にたいして「済度法船居士」「蓮慶妙船大姉」の法号を授与せられたという。

 

 

 

 

「百年食堂」⁇ってあります。…で、調べてみました。

・3代4代と受け継がれ、75年以上続いてきた食堂である。

・決して特別ではないが、その町の人々に慣れ親しまれて

 きたメニューがある。

・町に人々の生活に溶け込み、愛され続けている食堂

 である。

 ・・ということだそうです。*「百年食堂」は読売広告社の商標登録

 

 

 

 

「酒匂不動尊」は、真言宗大覚寺派のお寺です。

 

 

 

 

立派な長屋門がありました。「社会福祉法人ゆりかご園」とあります。戦後間もない昭和25年、創設者山下たけが自ら所有する土地・建物を用いて養護施設を開設。70年以上の歴史があります。

 

 

 

 

道端に「道祖神」の石柱があります。

 

 

 

 

かってはこのあたり松並木だったのでしょう。

 

 

 

 

「八幡山神明院三寶寺」は、浄土宗のお寺で、江戸時代は芝増上寺の末寺でした。小八幡村の鎮守八幡社を管理していました。

 

 

 

 

このあたりに「小八幡一里塚」があったようです。

 

 

 

 

この地「国府津」には、「看板建築㊟」が目につきます。かっては賑わった町だったと思われますが、時代が止まっています。

 

正面から見ると立派なビルディングにしか見えませんが、壁面には鏝絵もあり、パラペットに施されている柱のような装飾にはエンブレムのようなものが描かれています。

 

㊟看板建築とは、大正の終わりから昭和の初めにかけて建てられた擬洋風建物。建物は木造で、正面は銅板やモルタル、タイルで仕上げ、正面の装飾に意匠がこらされ、レトロかつモダンでおしゃれな建物のこと。

 

 

かって賑わった町が、なぜこれほどまでに寂れてしまったのかについては後で…

 

 

 

 

「親鸞聖人御勧堂」は親鸞が布教のために建てた草庵です。

 

 

 

 

ヨーロッパの建物を模したようなパラペットが立派な看板建築もあります。

 

 

 

 

戦前型のモルタル外壁の看板建築。洋風石造建築を模しており、隅の円柱、窓回り、軒部等に特徴的な意匠を備え、昭和モダンを感じさせる佇まいです。今はパン屋さんですが、昭和10年代竣工の建物で、当初はタクシー会社の車庫兼社屋だったそうで、国登録有形文化財です。

 

 

 

「国府津」は、小田原の東部に位置し、相模湾に面する町で、相模国府の湊があったことに由来します。

 

明治20年(1887)東京から延伸してきた東海道本線(図緑色)国府津駅が開業。あわせて翌年小田原馬車鉄道が開通すると、箱根方面への乗換駅となり、駅前には割烹旅館や商店が並びます。当時は長いトンネルを掘る技術がなかったので、大きく北に迂回する形で箱根山を越えて沼津に至っていました。それが明治22年(1889)開業の御殿場線(図オレンジ色)で、急勾配を越えるためにここ国府津に機関車庫が設置され、増結作業のため優等列車が停車し、交通の要衝として発展します。

しかし、昭和9年(1934)になると難関であった丹那トンネルが開通し、東海道本線が熱海経由に変わります。そのことによって国府津は、交通の要衝としての地位も低下し現在に至ります。ということはこの町がおおいに繁栄したのは、明治20年以降~昭和初期ということ、もちろんそれ以降も分岐点としてそれなりに栄えていたことでしょうが、町の発展が昭和で止まったように私には感じられました。その象徴が看板建築としていたるところに残っているからです。

 

 

 

「JR国府津(こうづ)駅」です。駅舎は3階建ての立派な駅ビルですが、商業施設が入っているわけではありません。

 

 

 

結構大きな駅で、ホームは3面5線。御殿場線の始発駅でもあります。国鉄が民営化されたとき国府津駅はJR東日本の所属となり、JR東海が接続する境界駅の一つです。御殿場線はJR東海の路線ですから、JR東日本とJR東海のそれぞれの車両が並列に停まっている風景も見られます。

 

 

今日は自宅を朝5時起き、新幹線で小田原まで、そして国府津駅午後5時、歩くのはもはや限界です。宿の取ってある藤沢まで向かいます。この日は30,561歩、22.6㎞歩きました。

 

             2024/05/15