小田原城総構えの一部の見学を終え「小田原城」に入るのですが…

 

 

 

小田原城に登城する前に、約100年間にわたって関東を支配した北条氏5代について記したいと思います。この早雲に始まる北条氏を、鎌倉時代の執権北条氏と区別するため後北条氏(小田原北条氏とも)と呼んでいます。

 

 

 

「初代北条早雲」の出自については伊勢素浪人説や京都伊勢氏説など諸説ありはっきりしません。ちなみに早雲自身は一度も北条氏を名乗ったことはなく伊勢新九郎で通し、出家して早雲庵宗瑞と号しています。

 

京に上った早雲は、足利義視の近侍となるも応仁の乱により浪人となり駿河に下ります。その後今川家の家督争いが生じ、その争いを収めたのが早雲でした。その功により興国寺城を与えられます。

当時伊豆で最大に勢力を持っていた堀越公方家の内紛に乗じ夜襲し、伊豆一国を平定したのです。実に鮮やかな国盗りだったのです。地位の下のものが上のものにとってかわるまさに下剋上そのもので、戦国時代の到来を告げる出来事でした。

 

早雲は伊豆一国では満足せず、明応4年(1495)9月小田原を攻め落とします。この時早雲64歳でした。それから20年後の永正13年(1516)7月三浦半島を攻め、相模一国を平定。3年後の永正16年韮山城で没します。88歳でした。

 

㊟早雲寺所蔵

 

 

2代北条氏綱は、早雲の亡くなる1年前の永正15年(1518)家督を譲りうけている。この時32歳でした。軍事面では大永4年1524)武蔵高輪で扇谷上杉朝興と闘い勝利する記念すべき戦いでした。晩年の天文7年(1538)下総国府台の戦いで勝利し、後北条氏の勢力が房総方面まで伸びてゆくことになります。

 

もう一つ重要な動きは、姓を伊勢から北条に変えたことです。

 

㊟早雲寺所蔵

 

 

3代北条氏康は、永正12年(1515)氏綱の長男として生まれます。関東戦国史の分水嶺ともいってよい戦いが天文15年(1546)4月に繰り広げられた河越の戦いでした。扇谷上杉朝定・山内上杉憲政・古河公方足利晴氏の連合軍8万人に対し8千人の不利な軍勢にもかかわらず大勝利に終わっています。これにより武蔵支配はゆるぎないものとなります。

 

㊟早雲寺所蔵

 

 

 

 

4代北条氏政は、永禄2年(1559)12月先代氏康の隠居に伴い家督相続。22歳でした。この氏政のとき領国はさらに拡大していくのですが、と同時に多難な時代でもありました。家督を継いでわずか2年後の永禄4年(1561)3月、長尾景虎(上杉謙信)に小田原城を包囲されるなど関東支配に乗り出してきたのです。さらに永禄12年(1569)10月には、武田信玄の大軍が小田原城を包囲するなど厳しい状況が続きます。

 

㊟早雲寺所蔵

 

 

5代北条氏直は、天正8年(1580)8月氏政の隠居に伴い家督相続。2年後の天正10年は甲斐の武田氏が信長によって滅亡に追い込まれ、その信長も光秀により滅ぼされたという激動の時代でした。後に続く豊臣秀吉とは氏政・氏直親子は一戦を画したのです。初代早雲以来歴代当主は中央とは距離を置きながら東国国家をもくろんでいた後北条氏にとって豊臣政権に組み込まれるのは受け入れがたかったのです。家康と同盟し対抗しようとしたのですが、その家康にも抜けられ孤立します。

 

㊟早雲寺所蔵

 

従臣しないと知った秀吉のターゲットは後北条氏に絞られます。後北条氏も秀吉の小田原攻めを想定し、城と城下町を全部包み込んだ総構えができたのもこの頃でした。領国のすべてでおよそ5万6千人ほどが動員され、臨戦態勢に入ります。しかし秀吉の軍勢は、それをはるかに上回る21万~22万人の大軍でした。

 

小田原城包囲の戦いは、天正18年(1590)4月3日から始まり、豊臣側の軍門にくだることを要求。北条氏直は和解のため豊臣側と小田原城内で評議を行いますが、お互いが主張を譲らず話し合いが長引くばかりで結論がでません。このことから後に「会議が長引き結論が出ないこと」を「小田原評定(おだわらひょうじょう)」と呼ぶようになったとか。

 

㊟小田原合戦攻防図。

黄色部分は後北条氏時代の城郭規模。総構えは城と城下町を土塁や堀で囲んだ全長9㎞の防御施設です。八幡山古郭は、当時主郭があったとされるところ。

①三の丸跡②二の丸跡③本丸跡は、近世城郭(大久保氏以降)の小田原城域です。

 

 

結局7月5日、氏直は開城して降伏し、北条氏政は切腹、氏直は高野山に追放され翌年亡くなり、後北条氏の幕は降ろされたのです。

 

                     2024/05/15