1年半ぶりの旧東海道歩きは、小田原からです。前回小田原に着いたのは夕闇迫る時間でした。ですから小田原城に登城していません。小田原城址公園に入る前に、城山公園とその周囲にある「総構え」を歩いてみます。

 

 

 

 

小田原駅西口に出ると「北條早雲」が出迎えてくれます。伊勢宗瑞(早雲)は、火牛の計により無血で小田原城を手中にしたという。増高5.7m、日本最大級の像です。

 

 

 

小田原城は、室町時代に西相模に進出した大森頼春が築いた城郭が前身とされまが、その規模や築城年代がはっきりしません。1500年頃伊勢宗瑞(北条早雲)が小田原に進出し、以降北条氏が5代100年にわたって関東での勢力を拡大し、その中心拠点でした。

 

北条氏は居館を今の天守の周辺に置き、背後にある八幡山を詰めの城(古郭)としていました。3代北条氏康の時代には、上杉謙信や武田信玄の攻撃にも耐え、難攻不落、無敵の城といわれました。最大の特徴は、豊臣秀吉の来攻に備え、城と城下を土塁と空堀で囲む総延長9㎞に及ぶ総構の出現に至ってその規模は最大となったのです。

 

小田原城惣曲輪古絵図

 

 

江戸時代家康によって空堀もかなり埋め戻されたようですが、現在もいくつか残されています。その一部を歩いてみました。

 

 

 

「八幡山古郭東曲輪」…15世紀末に伊勢宗瑞(北条早雲)が支配した頃の小田原城の中心地の一つだったようです。

 

 

 

 

「小峯御鐘ノ台大堀切」は、東堀・中堀(現在は道路)・西堀の三つの堀で構成されたいます。この空堀を複雑に組み合わせ、山の尾根を遮断して守りを堅固なものにしています。

 

「西堀」は天正18年(1590)小田原合戦への備えとして造られたものです。西堀はこの先まで続きますが見届けていません。

 

 

 

「東堀」を見下ろしたところです。現在の土塁上から測った堀幅は25~30m、深さはおよそ8~10mです。実際はもっと深かったようです。法面の角度は50~60度で、「障子堀」であったことも発掘で確認されています。現在の東堀の延長は280mあるようです。

 

 

 

 

東堀を下ります。

 

 

 

 

「横矢掛り」も見られます。

 

㊟横矢掛かり…土塁などの外周が一直線でなく折れ曲がっていること。敵を横や背後から攻撃できる。

 

 

東堀を下りきると一気に展望が開けます。

 

 

 

「三の丸外郭新堀土塁」がありました。総構えができるまでは、小田原城の外郭線でしたが、総構えが構築されたことで、一つ内側の堀となったのです。眺望にも優れており、南側には相模湾や伊豆大島を望み、西には箱根の山並みを見ることができます。

 

 

 

 

豊臣秀吉が築いた「石垣山城」も目の前です。「関白は天狗か神か、かように一夜の中に見事なる館出来けるぞや(『北条記』)」…などという一夜城伝説を生んだところです。一夜城伝説はともかく、人員を大量動員し築城を可能とする秀吉の権威と財力が、小田原北条氏が降伏する決定打となったのでしょう。

 

 

                     2024/05/15