奈良街歩きは元興寺に向かいます。

 

 

 

真言律宗のお寺「元興寺」を訪ねます。

 

仏教が中国・朝鮮半島をへて日本に伝来したのは、『日本書紀』によれば欽明天皇13年(552)のこととされます。しかしこの異国の宗教の受容をめぐって、進歩派であった蘇我氏(崇仏派)と保守派であた物部氏(廃仏派)と激しい対立が起こります。用明天皇2年(587)蘇我馬子は厩戸王(後の聖徳太子)とともに軍を起こし物部派を打ち破り、日本仏教に道を開きます。その翌年甥にあたる崇峻天皇が即位したのを機に飛鳥の地に法興寺(飛鳥寺・元興寺とも…日本書記)を建立したのです。百済の王はこの日本最初の仏寺建立を授けるため、僧・寺工・瓦博士などを派遣してきました。この飛鳥寺には三論・法相の両学派が最初に伝えられ、我国仏教の源流になったのです。

 

和銅3年(710)都が奈良に遷都されると、養老2年(718)飛鳥寺(法興寺)も奈良に移され蘇我氏私寺から官大寺となり、寺名も「元興寺」と改められたのです。そして僧侶たちは諸大寺の学問をリードし、新都奈良での指導権を握ったのです。天平勝宝元年(749)諸寺の墾田の格付けが行われ、東大寺の4千町歩につぐ2千町歩と定められ(ちなみに大安・薬師・興福の諸寺は1千町歩)、当時の元興寺の位置を示すものといえます。

そして天宝勝宝4年(752)の東大寺大仏開眼法要では元興寺の隆尊が講師となって華厳経を講じ、元興寺の僧が3首の献歌をしたのです。その中の1首

 

美那毛度乃(みなもとの) 乃利乃於古利之(のりのおこりし)

度布夜度利(とぶやとり) 阿須加之天良乃(あすかのてらの)

宇汰々天万都留(うたたてまつる)    『東大寺要録』

 

孝謙天皇・聖武上皇以下文武百官の居並ぶ大仏殿で朗読披露されたことは、仏教の源流を自負する元興寺の僧侶たちの心意気が伝わります。

 

平安時代の前半期までは、南都七大寺の指導的役割を果たした元興寺でしたが、平安後期になると、官寺の支えであった中央政府の衰えと、天台・真言の新しい寺院の隆盛もあって衰退の道をたどります。その衰退の過程でかろうじて元興寺の命脈を支えることになったのが、僧・智光の残した曼荼羅でした。この頃活発となる浄土信仰の波に乗って、この一画が「極楽坊」と呼ばれるようになり、南都系浄土信仰の中心となっていったのです。

 

㊟創建時の寺域

 

 

鎌倉期以降の中世となると、庶民と呼ばれる人々の支えにより、浄土信仰のほかに地蔵信仰、聖徳太子信仰、弘法大師信仰などが入り混じった混然とした状態で人々を集めます。今に遺る阿弥陀如来坐像(重文)、聖徳太子孝養像(重文)、弘法大師坐像(重文)が、当時の信仰状態をよく物語っているといえます。

 

江戸期に入ると幕府から100石の朱印地を与えられますが、明治に入り神仏分離・廃仏毀釈となると無住となり、堂舎は学校などに転用されます。昭和17年になってやっと真言律宗のお寺として中興されるのです。

 

現在の伽藍配置図

 

 

「東門(重文)」から入ります。四脚門の格式をとる東大寺西南院の旧門を、元興寺極楽坊の正門として移築されたものです。

 

㊟鎌倉時代の建造。応永18年(1411)移築。

 

 

 

東門をくぐると正面に「極楽坊本堂(国宝)です。奈良時代の三輪学僧であり浄土教学研鑽を創始した智光法師の僧坊と伝え、鎌倉時代の寛元2年(1244)単独の堂に改築されたもの。中世には元興寺極楽房、近世には南都極楽院と呼ばれたところです。

 

 

 

㊟この写真はお借りしました。

 

本尊は、智光法師が感得したという阿弥陀極楽浄土の変相図で「智光曼荼羅」といわれています。阿弥陀如来の極楽浄土を表現したもので、そういった意味では本尊は阿弥陀如来ともいえます。

 

「板絵智光曼荼羅(重文)」12世紀末…通常は非公開。

元興寺HPからお借りしました。

 

 

背後は「禅室(国宝)」です。元興寺旧伽藍の僧坊の遺構です。

 

 

 

 

極楽坊本堂の西流と禅室の南流の一部の屋根瓦は、飛鳥の法興寺創建当初の古式瓦を数千枚再利用しています。つまり蘇我馬子や聖徳太子が活躍していた飛鳥時代の日本最初の瓦がここで見られるということです。

 

 

 

 

「法輪館」に入ります。

 

 

 

 以下の写真はすべて元興寺HPからお借りしました。

 

「五重小塔(国宝)」・・光明皇后の発願により建立された元興寺西小塔に安置されたもので、現存する奈良時代の五重塔としては唯一のもの。

 

 

㊟奈良時代。

 

 

「木造彫眼阿弥陀如来坐像(重文)」‥來迎相すなわち上品下生の姿の半丈六像。阿弥陀様は西方十万劫土の極楽世界で今でも説法を続けているという。

 

㊟平安時代。

 

 

 

「寄木造玉眼聖徳太子立像(重文)」‥聖徳太子は観音の化身とする信仰。太子孝養像と呼ばれるもので、太子16歳のとき父用明天皇の病気平癒を祈る姿だとされます。

 

    

㊟文永5年(1268)。

 

 

 

「木造玉眼弘法大師坐像(重文)」‥空海は延暦4年(795)東大寺戒壇にて具足戒(比丘となる)を受けています。唐に留学し帰朝後の平安後期には真言宗宗祖として信仰され始め、鎌倉期から祖師像が造立されるようになります。

 

㊟鎌倉時代。弘法大師は諡号。

 

まだ紹介しきれない仏像がいくつかあります。これらを観ていると、日本仏教の移り変わりとか、元興寺の興廃とかが垣間見れます。

         2024/04/05