奈良街歩きは昼食処を探しながら元興寺に向かいます。

 

 

 

 

小路を進むと、ところどころに趣のある建物が残っています。

 

 

 

 

食事処は見つけたのですが、満席で待ち時間も少々あったので、その斜向かいにある真言律宗のお寺「福智院」を外観から眺めます。

 

福智院は、天平8年(736)聖武天皇の発願により僧・玄昉が創建した平城清水寺を起源とします。その後荒廃し、建長6年(1254)に興福寺塔頭大乗院の慈信僧正が福智院地蔵堂として再興します。本尊の地蔵像は、南都(奈良)の代表的な地蔵像として大いに信仰を集めました。

 

 

 

 

「玄昉(げんぼう)」は、奈良時代の法相宗の僧。養老元年(717)遣唐使に学問僧として随行し入唐、法相を学ぶ。約20年後の天平7年(735)一切経と諸仏を携えて帰国します。

 

天平8年(736)聖武天皇の母・藤原宮子の病気を祈祷により回復させたことで栄達を得る。翌天平9年(737)僧正に任じられ内道場(内裏において仏像を安置し仏教行事を行う建物)に入り、これをきっかけに政治に参与します。聖武天皇の信頼も篤く吉備真備とともに橘諸兄政権の担い手として出世しますが、人格に対し人々の批判も強く、藤原広嗣の乱なども起きます。

 

藤原仲麻呂が次第に勢力を持つようになると、橘諸兄は権勢を失い、玄昉も天平17年(745)筑紫国観世音寺別当に左遷され、翌年任地で没します。(玄昉に関しては藤原広嗣の怨霊によって死んだとか、光明皇后と密通した(今昔物語・源平盛衰記)とか怪奇な逸話を残します↑地図の頭塔が、玄昉の首塚という伝承も残します)

 

㊟法相宗興福寺南円堂、僧玄昉坐像(国宝)。

 

 

「本堂(重文)」は、鎌倉時代前期の建仁3年(1203)に建立されたもので、桁行一間、梁間一間の寄棟造、本瓦葺の建物です。外観から一見2階建てのように見えますが、一重裳階付です。裳階(もこし)とは仏堂などの本来の屋根に差し掛けた屋根のことです。

 

一般的に本堂は本尊仏を安置する仏堂で、金堂・根本中堂・仏殿などとも呼ばれますが、飛鳥から平安時代前半に建立された寺院では金堂といわれ、禅宗では仏殿といわれることが多いようです。

 

 

 

 

本堂には本尊「木造地蔵菩薩坐像(重文)」を安置します。鎌倉時代前期の建仁3年(1203)発願され、建長6年(1254)開眼供養が行われたものです。像高約2.7mですが、台座光背を含めると総高約6.7mに及びます。右手に錫杖、左手に宝珠を持ち、光背には560体の地蔵菩薩が表されています。

 

地蔵菩薩は、お釈迦様が没し、5億7千6百万年後か56億7千万年後の弥勒菩薩が出現するまでの間、無仏に苦しむ衆生を救済する菩薩とされます。

 

㊟この写真はお借りしたものです。

 

 

 

…で、むくり屋根、煙出し、袖うだつの付いた築100年の町家をリノベーションしたという…「Udon and cafe’ 麺喰」で昼食です。

 

 

 

 

 

ここの「ざるうどん+鶏唐揚げ」…つるんつるんで、こしがあって、とびっきり美味しい!…四国一周の旅の折り讃岐うどんを食べ歩きましたが、そのどこよりも美味しかったです。

 

 

                      2024/04/05