奈良街歩きは次に「新薬師寺」を訪ねます。

 

 

 

 

ゆるやかな街並みを登ってゆくと…


 

 

 

華厳宗のお寺「新薬師寺」に到着です。天平19年(747)聖武天皇の病気平癒を願って、光明皇后によって創建されたお寺です。

 

 

「南門(表門:重文)」から入ります。木造切妻造・本瓦葺で、鎌倉時代初期に建立された四脚門です。

 

 

 

 

聖武天皇は、天平15年(743)近江国信楽宮(紫香楽宮)で盧舎那大仏造立を発願され着手されました。しかし山火事と地震が頻発したため工事をやめ平城宮に戻られました。大仏造立は平城宮東南の山麓(今の東大寺)で再開されたのですが、天皇自身は苦労が重なり体調を崩されたのです。

 

そこで病気平癒のため、都と近郊の名高い山で「薬師悔過(やくしけか)」が執り行われ、薬師如来七躯造立、および薬師経七巻を写経するよう命じられたのです。薬師悔過とは、病苦を救う薬師如来の功徳を讃嘆し罪過を懺悔して、天下泰平万民快楽を祈る法要のことです。

 

これをきっかけに、天平19年(747)光明皇后によって高円山の麓に「新薬師寺(当初は香山薬師寺、香薬寺とも呼ばれた)が造営されたのです。

 

           

聖武天皇御尊影                   光明皇后御尊影

 

天平勝宝3年(751)新薬師寺で聖武上皇のための続命法が行われ、同4年(752)には東大寺大仏開眼供養会が営まれました。

 

 

創建当時は、金堂・東西両棟などの七堂伽藍が建ち並ぶ大寺院であったようですが、次第に衰退します。落雷(宝亀11年:780)による西塔などの焼失、台風(応和2年:962)による金堂など主要堂宇の倒壊などもあり、復興はしたものの往時の規模に戻ることはありませんでした。

 

 

桜にかくれてますが「地蔵堂(重文)」は、鎌倉時代の建物です。

 

左の石塔「實忠和尚御歯塔」とあります。実忠和尚は東大寺の僧で、この塔は奈良時代に建立され、当初は十三重塔だったという。なぜここに僧実忠の歯を埋め、塔が建立されたのか全く不明だそうです。

 


「本堂(国宝)」は、桁間7間、入母屋造本瓦葺の建物で、奈良時代の建物です。当初は修法を行うお堂だったようで、内部には円形の土壇が築かれ、壇上に薬師如来坐像を中心に十二神将立像が安置されています。

 

 

 

仏像の写真撮影は禁じられていますので、すべてお借りしたものです。

 

 

本尊「薬師如来坐像(国宝)」は、像高191.5㎝。平安初期・8世紀末頃の作とされます。眉、瞳、髭などに墨、唇に朱を差すほかは彩色や金箔を施さない素木仕上げとなっています。他の仏像に比べ目が大きく見開いているのが特徴です。
光背には6体の化仏が配されていて『七仏薬師経』に説く七仏薬師を表しているとされます。

 

㊟正式には「薬師瑠璃光如来」

 

 

「十二神将立像(国宝)」は、薬師如来の眷属で、天平期の像立とされます。土壇の上で円陣に取り巻いて中央のお薬師様を護衛し、激しい怒りを表したほぼ等身大の立像で、我国最古最大の十二神将像です。塑像「十二神将立像」のうち後補の1躯を除く11躯が国宝となっています。

 

↓そのうちの1躯「伐折羅(バサラ)大将立像(国宝)」は、左手を垂下して拳を開き、右手に剣を構える像で、像高約162㎝。500円切手のデザインにも採用されています。

 

㊟国宝指定名は「迷企羅大将」

 

 

「香薬師堂」および織田有楽斉の庭。

 

 

 

 

その「香薬師堂」には、「香薬師像」が祀られていた。いた…というのは昭和18年(1943)3月、盗難に遭ってその行方は今もようとして知れないのだそうです。像高約74㎝の金銅仏で、白鳳時代の最高傑作の美仏として旧国宝に指定されていました。いまはレプリカが安置されています。

 

昭和初期の文芸評論家、亀井勝一郎は『大和古寺風物詩』の中で…
「香薬師如来の古撲で麗しいみ姿には、拝する人いずれも非常な親しみを感じるに相違ない。高さわずかに二尺四寸金銅立像の胎内仏である。ゆったりと弧をひいた眉、細長く水平に切れた半眼の眼差し、微笑していないが微笑しているように見える豊頬、その優しい優雅な尊貌は無比である。両肩から足もとまでゆるやかに垂れた衣の襞の単純な曲線も限りなく美しい。‥‥どこかに飛鳥の楚々たる面影を湛えて、小仏ながら崇高な威厳を保っている。」…と、絶賛しています。

 

㊟盗難前の香薬師像。明治21年、小川一真撮影。

        2024/04/05