中山道「鵜沼宿」をめぐります。

 

 

 

 

町屋館(旧武藤家住宅:旅籠絹屋)の西側に、今は全く面影はありませんが「本陣」がありました。本陣桜井家は問屋・庄屋も務めていた名家でした。伊能忠敬らもここに宿泊しています。

 

 

 

 

その向かいに「菊川酒造」があります。明治4年(1871)創業の酒造会社です。中山道に沿って建つ酒造蔵(本蔵)は、大正時代後期の建物で、土蔵造り2階建てです。

 

 

 

 

 

 

ここ鵜沼宿は、芭蕉と縁の深いところでもあります。貞享2年(1685)「野ざらし紀行」の途次、脇本陣坂井家に滞在。貞享5年(1688)7月頃再び訪れ、

 

汲溜の水泡たつや蝉の声

 


の句を詠み、さらに同年8月頃再度訪れ、脇本陣坂井家で菊花酒のもてなしを受けた折には

 

ふく志るも喰へは喰せよきく乃酒

 

と詠み、主人の求めに応じ楠の化石に即興の句を彫ったと伝えられます。

 

 

その後木曽路を通って信濃への「更科紀行」へ旅だった芭蕉は

 

おくられつ送りつ果てハ木曽の秋

 

と詠み、美濃の俳人たちとの別れを惜しんだといわれます。

 

 

 

その「脇本陣坂井家」が復原され平成22年5月より公開されています。本陣に比べ規模は小さいものの、上段の間を備える格式の高い建物でした。

 

 

 

 

門を入ったところに…

 

 

 

 

芭蕉自刻の句碑…「ふく志るも喰へは喰せよきく乃酒」…がありました。

 

この句碑は長く坂井邸に置かれていましたが、明治維新を迎え鵜沼宿が衰退していく中で明治15年(1882)犬山の高桑家に譲られます。その後菩提寺の薬師寺に奉納され境内に移設されました。時を経て各務原市の中山道鵜沼地区再生整備計画により薬師寺に要望し、譲り受けたものです。

 

 

 

 

 

 

脇本陣の西側に「二ノ宮神社」があります。ちょっと登って見ます。

 

 

 

 

祭神は「国狭槌尊(クニサヅチノミコト)」です。『日本書紀』では天地開闢直後誕生の神。この社殿の左側石垣にあるのが…

 

 

 

 

「二ノ宮神社古墳」の横穴式石室です。もともと社殿のあるところは直径29mの円墳で、およそ6~7世紀に造られたとされます。

 

本来の石室は前半部の羨道と後半部の玄室からなりますが、羨道が削り取られ、玄室のみが残された状態となっています。石室の残存部の大きさは、長さ6m、幅2.1~2.6m、高さ2.3mです。

 

 

                        2024/04/06