犬山橋をわたり中山道鵜沼宿に向かいます。慶安3~4年(1651)頃、うとう峠越えの道が開削された中山道でしたが、それまでは、土田宿(上街道で記事にしました)から南に大きく回り込み犬山に至り、今の犬山橋付近の内田の渡し(鵜沼の渡し)で木曽川右岸に渡り、鵜沼宿に至っていました(↓地図の鵜沼南町・鵜沼古市場あたりに鵜沼宿があったようです)。

 

 

 

溪斎英泉描く「木曽街道鵜沼驛従犬山遠望」…犬山より鵜沼宿を遠望したところです。

 

 

 

鵜沼宿の東のはずれ、「追分」に立つ​道標です。左が中山道うとう峠方面、右が犬山橋方面です。

 

 

 

 

 

旧中山道を西に進みますと、坂祝バイパスに出ます。このあたり鵜沼宿東見附。「高札場」がほぼ当時のまま復元されています。

 

 

 

 

中山道は鵜沼村(尾張藩領)をへて各務村(幕府領)そして再び鵜沼村に入りました。村境を明示するため「是より東尾州領」と…

 

 

 

 

「是より西尾州領」の2本の傍示杭を立て領地を明示しています。この西の傍示杭の西側に問屋場がありました。

 

 

 

 

「鵜沼宿」に入ります。慶安4年(1651)頃、うとう峠道開通に伴い宿場もこの地(鵜沼東町・東町)に移されます。天保13年(1843)の記録によれば、本陣1軒、脇本陣1軒、旅籠25軒でした。

 

 

 

 

大安寺川に架かる橋を渡ると「宇留摩庵」があります。宇留摩は江戸時代以前の鵜沼の古い表記です。

 

 

 

宇留摩庵の向かいに「旧大垣城鉄門(くろがねもん)」があります。この門は明治9年の廃城令により、各務原市在住の安積氏が払い下げを受けたものを、平成21年にここに移築したものです。

 

この門は、高麗門形式で、主に城門として用いられました。門の表面を鉄板で覆った最初の例は、信長が築城した安土城の正門とされます。以来短冊形の鉄板を隙間なく貼った門を鉄門(くろがねもん)と呼ばれています。高麗門形式の鉄門を今に残すのは、ここと名古屋城本丸二の門(重文)と大坂城大手門(二の門:重文)のみだそうです。

 

 

 

 

「町屋館」です。この建物は平成18年各務原市が武藤家から寄付を受け、修復工事をへて平成20年5月より公開されているものです。

 

江戸時代は「絹屋」という屋号の旅籠でした。明治維新となり鉄道の普及により旅籠の経営も難しくなり、明治16年より昭和39年まで郵便局を営んでいました。屋敷は中庭を挟むように、主屋と東の附属屋、離れの三棟からなります。

 

 

手前「附属屋」は大正から昭和初期に建てられたものです。木造つし2階建て、平入、切妻桟瓦葺屋根の建物で、養蚕小屋として利用されていました。

 

 

 

 

「主屋」は明治24年の濃尾大地震で倒壊し、その後再築されたものです。木造つし(㊟)2階建て、平入、入母屋造り桟瓦葺屋根です。

 

主屋正面に「大戸」が設けられ、幅1間ほどの頑丈な片引きの板戸です。夜間の出入りには大戸の中ほどにある小さな潜り戸を用います。

 

大戸の隣にある「格子戸」は、光や風を通しますが、外から内部は見ずらくなっています。1階は平格子、つし2階は、親子格子と荒組格子となっています。

 

㊟「つし(厨子)2階建て」とは…2階の天井が低い町家のことです。江戸時代2階建ての町家は認められていませんでした。そこで1階の屋根裏に窓を開け、物置や使用人の住まう場にあてられていた。

 

 

 

 

大戸をくぐると左側和室。2階に登る「箱階段」があります。箱型の引き出しなどスペースを利用した機能的でかつ装飾も兼ね備えたものです。

 

㊟2階は非公開。

 

 

「離れ」は昭和初期に建築されたもので、太田宿から移築したと伝えられています。木造平屋建て、妻入り、切妻造り桟瓦葺建物です。

 

 

 

                      2024/04/06