中山道太田宿をめぐります。

 

宿場の長さは6町14間(約680m)あり、天保14年(1843)の記録によれば、家数108軒(うち本陣1軒・脇本陣1軒・旅籠20軒)人口505人だっだそうです。

 

 

 

江戸時代『中山道道中記』などにの載る有名な旅籠であった「小松屋(吉田家)」です。現在の建物は江戸末期の建築です。明治中期に2階部分が改造され、大正時代に店先が改造され、戦前ごろまでは煙草の元売り等を行っていたそうです。今はおやすみ処となっております。

 

 

 

当時の町家建築の姿を良く留めており、国土の歴史的景観に寄与するものとして、国登録有形文化財に指定されており…

 

 

 

内部も公開されています。

 

 

 

 

前面格子造りの家…

 

 

 

 

「鍾馗」さまが鎮座しています。

 

 

 

 

「魚徳」…太田宿名物・鮎の甘露煮を売ってるお店です。

 

 

 

久しぶりの再訪ですが、寂れましたねぇ。いくつかの風情あった建物も取り壊されています。

 

 

 

 

美濃の地酒「御代櫻」…人気です。明治26年、本陣福田家から酒造権を譲り受け開業。

 

 

 

 

手前左側に大きな蔵があり、風情ある風景が広がっていたのですが…

 

 

 

 

「脇本陣林家」です。林家は脇本陣のほか太田村の庄屋や尾張藩勘定所の御用達も務めていました。また質屋や味噌醤油の製造販売を営んだ旧家でもありました。

 

往時には東西25間の間口、土蔵10棟、馬屋3棟、離れ屋敷などを持つ壮大な屋敷でした。

 

写真は手前から隠居屋、表門、主屋とつながっています。主屋の居室部分は、明和6年(1769)に建てられたものだそうですから、250年以上も前の建物ということになります。

 

 

 

 

切妻の屋根には立派な「うだつ」も設けられ、この家の権威と格式がうかがえます。18世紀の典型的町家の雰囲気を漂わせる造りで国重要文化財に指定されています。残念ながら内部は公開されていません(隠居屋は一部公開されています)

 

明治15年(1882)板垣退助もここに逗留し、翌々日岐阜にて暴漢に襲われています。「板垣死すとも自由は死せず」と言ったとか言わなかったとかあの事件です。

 

 

 

 

向かい側に本陣福田家がありましたが、今は「表門」を残すのみです。

 

この門は文久元年(1886)皇女「和宮」が徳川14代将軍に嫁ぐため中山道を通ることとなり、その折り新築されたものだそうです。いわゆる薬医門と呼ばれるもので、両袖に半間の塀がついている格式ある門です。

 

 

 

                       2024/03/03