この大井戸の渡し(尾張川:現木曽川)は、鎌倉時代に起こった国内最大級の内乱・承久(じょうきゅう)の乱の口火を切った「大井戸の戦い」の場所でもあります。

 

㊟サライよりお借りしました。

 

 

承久の乱とは、承久3年(1221)後鳥羽上皇が鎌倉幕府執権北条義時に討伐の兵を挙げて敗れた兵乱のことです。日本史上初の朝廷と武家政権との間に起きた武力による争いで、鎌倉軍の圧勝により支配階級が公家から武士へと移り変わる画期的事件でした。以降600年にわたり武士が政権を担い続ける契機となりました。

 

鎌倉幕府の初代頼朝から3代実朝までは、清和天皇の血をひく源氏将軍で、朝廷にとって身内ともいえ、その間は東日本に勢力を置いた鎌倉幕府と西日本の支配を保った朝廷による二元政治状態にありました。源氏将軍が途絶えたあと、朝廷は武家政権打倒と日本全土の統治回復を目指すこととなり、この戦いが勃発したのです。

 

後鳥羽上皇

 

 

上皇挙兵の報に鎌倉武士は動揺したが、北条政子は御家人たちを前にして…

 

「皆心を一にして奉るべし。これ最後の詞なり。故右大将軍朝敵を征罰し、関東を草創してより以降、官位と云ひ俸禄と云ひ、其の恩既に山嶽よりも高く、溟渤よりも深し。報恩の志これ浅からんや。而るに今逆臣の讒に依り非難の綸旨を下さる。名を惜しむの族は、早く秀康・胤義等を討取り三代将軍の遺蹟を全うすべし。但し院中に参らんと欲する者は、只今申し切るべし」…と訴え(『吾妻鏡』承久三年辛巳五月十九日壬寅条)て鎌倉武士を結集させることに成功したという。

 

北条政子

 

 

木曽川左岸(可児市側)に鎌倉幕府軍5万余騎と右岸(美濃加茂市側)に朝廷軍2千余騎が布陣し、戦いを繰り広げました。数を誇る鎌倉幕府軍が一気に朝廷軍を打ち破り、その後の戦いを優位に進めた戦いの場所です。

 

 

 

 

 

歴史ある「大井戸」の地名は地図から消えてなくなりましたが、先の白髭神社境内に「大炊戸(おおいど)天満宮」として名を残します。

 

 

 

 

近くの下切弘法堂に、「伝・承久の乱の供養塔」と伝わる五輪塔や石仏群が集められています。

 

 

                     2024/03/03