「上街道」を進みます。

 

 

 

 

曹洞宗のお寺「報恩寺」です。先に記事にした「土田のビードロ」の創業者・石塚岩三郎は、幕末に没しここに葬られています。

 

 

 

 

 

 

 

報恩寺から主要道路に出ると、屋敷門だけがポツンと残されています。少し前までは屋敷があったようですが、今は綺麗に整地されています。

 

ここが「土田宿本陣跡(止善殿)」があったところです。この地は旧東山道土田~善師野~犬山という経路があったことから、古くから宿駅があったようです。初期の中山道の宿駅でもありました。木曽川の流れによる渡し場の変遷にともない、元禄7年(1694)中山道に伏見宿が新設(間の宿があった)されたことにより、中山道の宿としての使命を終えています。

 

 

天正10年(1582)織田信長が武田氏攻略の際や、慶長5年(1600)関ケ原合戦のおり徳川秀忠がここに宿泊している記録があることからも、徳川幕府が中山道を整備する以前から存在していたことがわかります。

 

尾張徳川藩初代藩主義直は、この地が名古屋からちょうど一日の行程にあり、土田の土豪であり信長・信忠父子の止宿や徳川秀忠嚮導の由緒を持つ藤井助十郎邸に、尾張藩主の宿泊施設を設置させ「止善殿」と名付けたという。

 

本陣とは、もともと陣中にある武将の本営のことですが、転じて武将の宿泊所も本陣と称するようになり、寛永10年(1633)徳川幕府は、東海道・中山道などの主要街道の宿駅の大名宿を「本陣役」に指定したことが、宿駅の本陣・脇本陣制度の始まりです。土田宿の止善殿も、その後は尾張藩指定土田宿本陣として幕末まで続きます。

 

この界隈は100戸ほどの町並みだったようですが、天保2年(1831)の大火で多くが焼失し、止善殿のあった場所も実ははっきりしていません。現在の林本家の跡には、止善殿の跡と伝承される門を残すのみです。

 

 

 

 

 

振り返って見たところです。少し進んだ左側に…

 

 

 

 

「白鬚神社」の大鳥居が立っています。由緒ありそうですのでお参りしていきます。

 

 

 

 

かなり長い参道が続きます。

 

 

 

 

やっとのことで拝殿に到着です。

 

 

 

 

平安時代の天慶3年(940)平将門の乱平定のため東征中の平貞盛が、夢のお告げによって土田大脇の地に建てたとの伝承を残します。

 

のち永禄13年(1570)3月土田城主生駒氏がこの地に遷し、土田城の鬼門鎮護の神社としたという。

 

祭神は、猿田彦大神・建御名方神・天照皇大神・伊弉諾命・天御蔭神の五座を祀ります。

 

 

 

 

 

毎年4月第1日曜日の例大祭は、神輿渡御と流鏑馬神事が執り行われます。この流鏑馬は、土田城主生駒道寿が、現在地に遷座させた際大祭を行い、自ら乗馬し家臣を引き連れて流鏑馬を奉納したことに始まるという。

 

㊟この写真はお借りしました。

              2024/03/03