土田城跡から下山し「上街道」を進み、可児川に架かる刎橋を渡ります。

 

 

 

 

 

先ほど登った「土田山(城跡)」…左のピークが出丸跡(標高182m)、右のピークが本丸跡(標高172m)です。比高は110m程です。

 

 

 

 

旧街道にある雰囲気のある立派なお屋敷がありました。

 

 

 

 

地区の有力者のお屋敷と思われます。旧街道を歩いていていつも感じることは、地域の有力者は、維新後郵便局を預かったり、たばこ販売(かっては専売)を手掛けることが多かったようです。

 

 

 

 

いまはたばこ販売もやめ「可児ガラス工房」の看板が架かっています。

 

この地(土田)では「ビードロ(ガラス工芸)」が作られた歴史があるのだそうです。土田で製作されたものは現存伝世されたものはないようですが、言い伝えでは「かんざし・杯」などが作られたという。

 

文政2年(1819)11月、下総国出身の岩塚岩三郎という人物が、長崎でビードロ製法を習得し、故郷へ帰る途次のことです。鵜沼宿の寺に泊り住職にビードロの話をしている中で、近くの多治見・土岐で陶器の生産をしていることを聞き、良質の珪石探していたところ、ここ土田山の一角で発見、ビードロ作りを始めたのだそうです。

 

ビードロかんざしは大変高価で貴重品扱いだったといい、そのビードロ屋の存在は尾張藩公にも知れ、金魚鉢を納めることとなります。その後藩公の前で技術公開を申し付けられ、尾張藩お抱えとして名古屋城御深井の窯を築く準備中に幕末となって沙汰止みとなったという。岩三郎は慶応3年(1867)4月没し、土田報恩寺に葬られます。

 

2代目文左衛門はここで技術革新を取り入れ、ガラスづくりを工業化し、大衆のための製品(ランプのホヤ、共栓薬ビン)作りと発展させました。

 

        

㊟石塚硝子の歩みより。

 

 

出荷先が名古屋中心ということもあって、明治21年(1888)工場を名古屋に移転し、ここ土田でのビードロ・ガラス製造は文政2年から明治21年までの70年間で終焉します。

 

ちなみに名古屋に移った石塚文左衛門は「石塚ガラス」を、2代目の弟子になった土田出身の曽我作太郎も明治40年5月独立して「曽我ガラス」を創業、中部ガラス工業の双璧として現在に至っています。

 

 

 

 

振り返って見たところです。「鳩吹山」と…

 

 

 

 

「土田山(城跡)」です。

 

 

 

 

臨済宗妙心寺派のお寺「富春寺」です。土田氏一族の菩提寺です。お寺の案内板によれば、開祖は祖球大姉で、天文2年(1533)土田初代城主下総守土田政久の菩提を弔うため、夫人でもある祖球大姉(織田能定の娘)が蟹川河畔に草庵を建てこれを富春庵と名す。以降念仏三昧に暮らしたという。

 

美濃土田(どだ)氏は、木曽義仲の四天王といわれた根井行親の末裔と伝わります。南近江の守護六角氏の家臣として仕え、文明年間(1469~1486)この地土田に移り住み、勢力を築き土田姓を名乗り土豪となります(異説あり)。

 

後に土田秀定は明智氏の娘婿となり、明智氏の家臣として勢力を広げ、文明年間に土田城(先に記事にしました)を築きます。子に秀久、いぬゐ(織田信定・室)を産んだとされます。

 

土田秀久(生没年不詳ではっきりしない人物)には土田泰久(長男)、土田政久(次男:生駒親重)、土田久通(三男)、土田御前(長女:織田信秀室)がいる(異説あり)。

 

土田氏は土岐氏庶流の明智氏に仕える美濃国可児郡土田郷の豪族でしたが、尾張国と隣接していたため、縁戚関係にある織田氏や生駒氏に従って出兵したという土田氏の複雑な事情が垣間見えます。秀久の頃には、美濃土田で3万石の石高があったようです。

 

 

 

 

                       2024/03/03