「上街道」は「小牧宿」に入りました。この先「善師野宿」と「土田宿」のあわせて3つの宿場がありました。

 

 

 

 

上街道を振り返って見たところです。ここに木戸・高札場がありました。

 

小牧の街は、永禄6(1563⁾織田信長が開いた城下町に起源を持ち、当初は小牧山の南側にありました。元和9年(1623)尾張藩が上街道を開設するに際し、宿駅として整備するため、現在地に移したものです。寛文11年(1671)家数25軒、人口1488人だったと記録されています。

 

 

 

 

二階に欄干のある建物…懐かしい。

 

 

 

 

町家が立て替えられ、現代風な建物となっています。お洒落な車が停められています。

 

 

 

 

白漆喰塗籠の立派な町家がありました。「岸田家」です。江戸時代に苗字帯刀を許された旧家で、小牧宿脇本陣を務めました。幕末には庄屋も務めました。

 

 

 

 

荒目の平格子や親子付の出格子も見事です。

 

 

 

 

障子張の出入り口も雰囲気ありますね。

 

 

 

 

 

庇上には堂々とした「屋根神様」を残します。

 

 

 

 

 

↑図のように、岸田家の西側に入ったところに「小牧御殿・小牧代官所」がありましたが、現在は民家や道路となってその面影を偲ぶものは残っていません。

 

尾張藩の御殿は江戸時代初期、佐屋・津島・熱田など14ヶ所設けられました。寛永2年(1625)この地にあった江崎善左衛門の蟹清水屋敷に初代尾張藩主徳川義直は鷹狩りの折に訪れ、気に入り御殿としたのです。普段は江崎氏が御殿守として管理していました。御殿の敷地は約2350坪で10畳以上の部屋が10室もあったそうです。

 

天明2年(1782)小牧御殿の一角に「小牧代官所(陣屋)」が設けられました。尾張藩の財政窮迫に伴う改革策として、農政に力を入れるため、地方に12ヶ所の代官所を設けた内の1つです。代官所は藩のお触れの伝達や各村の庄屋・組頭などの監督、年貢や賦役の徴収を行うほか、治安・警察の仕事や様々な訴訟を扱ったり、その職務は多岐にわたっていました。

 

小牧代官所は、尾張国丹羽郡127村、尾張国春日井郡125村、美濃国可児郡5村、という広範囲を管轄しており、代官の下に手代・並手代・足軽(同心)・小使など、14名ほどが配置されていました。

 

この「福禄寿石像」は、義直が制作させ御殿に設置していたもので、江戸時代前半のものとされます。

 

 

                         2023/11/02