大正村をめぐります。
うかれ横町のある「中馬街道」を先に進むと…
「南北街道」と交わります。
十字路を踏み切ったところに「さつき旅館」があります。日本大正村で営まれている唯一の宿です。
大正時代に建てられた築100年の木造建物で、当時の面影を色濃く残します。中に足を踏み入れれば、過去にタイムスリップしたかのよう。ノスタルジックな空間が広がります。
㊟上の2枚の室内写真は、HPからお借りしました。
この交差点は、南北街道と中馬街道(脇往還)の出会いの辻です。東にたどれば伊那路から塩尻へ、また西にたどれば尾張へ、南に下れば奥三河から岡崎へ、北にたどれば中山道へ。
かっては、三河地方から信州や木曽へ塩や織物を運んだ南北街道と、南信州飯田地方から瀬戸や尾張へ繭や薪を運んだ中馬街道の出会ったところで、馬子の唄声やお伊勢参りの人で賑わった辻でした。
さてその「中馬街道」ですが、江戸期の三河と南信州伊那を結ぶ重要な幹線道路でした。その中馬街道には本道と脇道があり、本道は南信州飯田から南下する三州街道南端根羽で二方向に分岐し、一つは「伊那街道」を南下して津具・田口をへて吉田(豊橋)に至ります。もう一つは根羽から西南に向かう「飯田街道」で、足助を通って岡崎、名古屋に至ります。
脇道(脇往還)は、根羽の先から分岐し、大桑峠を越えて明智、柿野をへて尾張瀬戸、名古屋に至る道です。
「中馬街道」は正式な街道名ではなく、中馬が通った道ということでそう呼ばれていました。その「中馬」とは、江戸時代信濃や甲斐で発達した陸上運輸手段でした。中山道などの五街道では、伝馬役は隣接する宿場町間のみ(宿継)の往復に限られていました。寛文年間頃より農家の副業として駄賃馬稼(だちんうまかせぎ)も行われ、それが次第に専業化され、顧客先から相手先まで荷物を運ぶようになり、元禄年間頃(1690年代)「中馬」と呼ばれるようになったようです。中馬は宿場で馬を替える必要がなく(㊟通し馬)急速に成長していったため、宿場問屋は大きな打撃を受け、禁止を求めて江戸表に訴えも起こされます。
南信州飯田藩のほぼ全域を貫く「三州街道(伊那街道・飯田街道)」では、中馬の規制が緩やかであったこともあり、同地域を中心に南信濃4郡(伊那郡・諏訪郡・安曇郡・筑摩郡)で隆盛となります。その後もたびたび訴訟沙汰となるも勢力を拡大し明治中期に至りますが、鉄道が通じ道路が整備され自動車運送が増えるとともに衰退していきました。
中馬は普通一人で3.4頭の馬を牽引し、100貫前後の荷を運んだとされます。信濃からは煙草・酒・米・大豆・小豆・麻などが運ばれ、逆に、塩・茶・綿・鉄器・陶器などが信州に運ばれ、中馬はその運搬に重要な役割を果たしました。
㊟この職業を「馬子」、馬を「駄馬」あるいは「稼馬」
「荷馬」といい、輸送料を「駄賃」と称した。
中馬街道は三河湾でとれた塩を信州に運ぶ道でしたから、「塩の道」でもありました。三河産の塩はその目方が(重さ)が産地によってバラバラだったため、一旦「足助」で荷ほどきされ、馬で運ぶのに適した7貫目(約26㎏)に包みなおされました。これを通称「足助直し」と呼んだそうです。それを一頭の馬に四俵づつ付けて運び、年間二万俵をこえる塩が信州に運ばれました。
この時三河湾各地の塩を混ぜ合わせたため「足助塩」という名で流通し、混ぜ合わせることで塩の味が良くなり、評判の塩だったと伝えられます。
日本大正村南方面めぐりを終え、大正時代の面影を残す、南北街道を戻り東方面に向かいます。
こんな看板にも風情が残ります。
2023/07/24











