大正村をめぐります。

 

 

 

 

「大正村資料館」に入ります。明智町は岐阜県東南端の丘陵地です。寒冷地であり夏も涼しいところです。その涼しさが良質の繭を生産するのに適し、農産物の収穫の少ないこの地で、明治の初め頃から養蚕を副業とする農家が増えました。

 

当地の先覚者橋本幸八郎氏の設立した濃明銀行のもとで「繭蔵」として使われてきた蔵です。(㊟濃明銀行存続期間…明治30年~昭和6年。岩村銀行と合併し恵那銀行となり、その後十六銀行に譲渡されます。)蔵は奥にあるのが「西棟」で、手前にあるのが「東棟」です。東棟は大正7年(1918)に建てられたもので、木造2階建、切妻、桟瓦葺です。現在は大正資料館受付・休憩所となっています。

 

 

 

 

橋本幸八郎(1851~1930)は土岐郡柿野町で生まれ、明治8年(1873)に13代橋本幸八郎の養子となります。橋本家は味噌溜醸造、質屋、銅鉄販売業を営み庄屋などを務める家柄でした。先代は東濃に製糸業を興そうと考え、新式の汽缶型糸繰鍋を造り生糸を生産し横浜に出荷し、また独自に養蚕の伝習所を開設し、地元の青年子女に習わせました。さらに産業の発展には金融が必要であることを痛感し、地元の有志と図って濃明会社を設立初代社長に就任した。

14代幸八郎は、明治19年(1886)に家督を引き継ぎ、幸八郎を襲名。明治22年(1889)に町村制が施行され明知町になります。明治23年(1890)県会議員に当選。明治30年(1897)濃明銀行設立初代頭取に就任。明治38年(1905)から大正5年(1916)まで明知町長として町政にあたり、この地方の発展と生活向上に貢献します。

町長時代の主な業績は①町有林の維持活用②小学校の改築、講を作って道路改修交通の便を計る。私立明知病院の設立。衛生思想の普及に努める③我が国初の町営電気事業の創設。矢伏(第一)発電所の運転開始(明治41年)などがあります。

 

㊟明智町誌より

 

 

正面奥「西棟」に向かいます。

 

 

 

 

「東棟」を振り返って見たところです。

 

 

 

 

 

「西棟」は、明治42年(1909)建てられた蔵で、木造3階建(一部4階)、切妻、桟瓦葺です。当時は農家から預かったり買い取ったりした繭などを保管したところです。明智町が養蚕で栄えた時代を語る近代産業遺産で、現在は大正村資料館として一般公開されています。

 

養蚕業の最盛期は明治時代末期から大正時代でした。大正5~6年頃には繭1貫目(3.75㎏)が米1俵(60㎏)の額に匹敵していたそうです。養蚕農家では「おかいこさま」と呼ばれるほどで人間よりも大切に扱われ、飼育時はすべての部屋を養室にあて、人間は土間や板の間にムシロを敷いて寝起きしたほどであったとか。昭和10年頃まで養蚕は農家の現金収入となり盛んに飼育されてきましたが、昭和12年頃から戦争体制に入り、食糧増産の国策で桑畑は次第に畑化され、養蚕は衰退していきました。

 

 

 

 

繭蔵を横から見たところ。壁のマークは濃明銀行のマークです。明知の「明」をデザイン化したものです。

 

 

 

 

当時としては珍しい滑車式の昇降機供えられていました。今でいう「エレベーター」ですね。全館6室、百畳敷きの規模があるという広さです。

 

 

 

 

内部から「昇降機場」を見たところです。

 

 

 

 

明治時代、人の言葉、音を蘇生する器機を手に入れた。人はこの魔的な箱に「写声器」「畜語器」と多様に名付け親しんだ。

 

 

大正時代、弦より流れる哀愁の旋律を、鍵盤に打たれるロマンの響きを生活の中に取り入れ、暮らしに豊かなバリエーションを加える。

 

日本人はこの箱を「チクオンキ」と呼んだ。

 

 

 

 

 

 

 

「針の付いた振動版を速やかに動くパラフィン紙に近づけた。私はもはや疑いもなく人間の声を完全に自動的に再生させる装置を組み立てることができる」…エジソン

 

明治20年(1887)7月、エジソンはシリンダーを手で回しながら「メリーさんは子羊を待っていた…」と吹き込みます。

 

次に再生針を接触させハンドルを回転させると…確かに自分の声が聞こえた。エジソンは機械を「フォノグラフ」と名付けました。日本では「蓄音機」と訳されています。

 

 

 

 

電話や映写機も時代の最先端でした。

 

 

 

 

広告ポスターも…

 

 

 

 

大正時代の重大ニュースは、まず第一次世界大戦でしょう。そしてロシア革命、シベリア出兵と続きます。大正ロマンが花開く一方、米騒動や原首相暗殺。そして関東大震災と結構激動の時代でした。そしてNHKラジオ第一声が発せらたのも大正時代でした。

 

 

 

 

ランプやミシンやラジオも…

 

 

 

置き薬も…

 

 

 

 

 

昭和初期はモダニズム全盛。断髪のモダンガールが銀座を闊歩しました。

 

 

 

 

明治末期にはスキーも伝わります。

 

 

 

 

近代日本は文明開化で明け、上流婦人はいち早く洋装を取り入れました。

 

 

                           2023/07/24