岩村城跡をめぐります。

 

                         ㊟余湖くんのHPより。

 

 

 

本丸跡の北東面に雛壇状に築かれた六段の見事な石垣は「六段壁」と名付けられています。もとは最上段のみの石垣だったようですが、崩落を防ぐため、前面に石垣を積むことを繰り返した結果、今ある姿となったようです。

 

岩村城跡の見どころの一つで「落とし積み」といわれる技法で石垣が積まれているのだそうです。

 

 

 

 

別の角度から…

 

 

 

 

本丸跡に登ります。

 

 

 

 

 

 

「長局埋門(ながつぼねうずみもん)…両側の石垣の上に多門櫓を載せ、石垣の間に門を設けた櫓門です。

 

 

 

 

「六段壁」の上から覗いてみました。

 

 

 

 

 

本丸に入る搦手門は埋門となっています。門の上にこれに跨って長い多門が建っていて、監視と防備の役割を果たしていました。

 

この石垣は、自然石をそのまま積んだ「野面積」や、自然石の石垣の外側のみ平らにした「打込ハギ」や、そして切り石を使う「切込ハギ」の三種の積み方を一度に見ることができ、岩村城の改修の歴史を見ることができる貴重な遺産です。

 

 

 

 

複雑な構造になっています。ここから出丸に行ってみます。

 

 

 

 

 

出丸跡に向かう本丸跡の石垣。

 

 

 

 

振り返って見たところです。素晴らしい曲線を描いています。

 

 

 

 

 

出丸跡の一角に、休憩所が設けられています。

 

 

 

 

出丸跡から城下町を望みます。非常時に城下に知らせる太鼓櫓がありました。この太鼓が打たれると、武士たちは完全武装して登城し、城下町の住民は火をすべて消して、木戸を閉めて城からの指令を待ったのだそうです。

 

 

 

 

 

 

 

海抜717mにある本丸跡です。本丸には納戸櫓など二重櫓2棟、多門櫓2棟が石垣上に構えられていましたが、天守閣はありませんでした。城内の要所要所に11の櫓や櫓門があり、全部が本丸に統一掌握されるようになっていたそうです。江戸時代、麓に藩主邸が造られるまでは、城主はここに居住していました。

 

 

 

 

 

「昇龍の井戸」があります。717mの山頂にありながら、決して涸れることがなかったそうです。どこから湧き出してくるのでしょうかね。

 

 

 

 

天正10年(1582)3月11日、甲州武田征伐の為、「織田信長」は「明智光秀」ら筆頭家臣団を引き連れ、ここ岩村城に入城しています。おりしもこの日「武田勝頼」は、織田軍・滝川一益隊との最後の一戦で敗れ、嫡男ともども敗死。

3月13日武田氏滅亡の報を受けた信長は、祝宴を兼ねて薪能を楽しんだという。

 

 

本丸跡から東濃の山々を見たところです。かすかに霞んでいます。

 

天下統一を目前に、東濃の山々を眺め、信長は何を思いめぐらせていたのでしょう。

そして並んで眺めている明智光秀の心境やいかに…

 

 

信長は、これより80日あまり後の天正10年(1582)6月2日、京都本能寺において明智光秀に打たれ自刃。49歳の生涯を終えます。因果はめぐるというか戦国の世というか…

 

 

                         2023/06/18