いよいよ「岩村城跡」の核心部に向かいます。が、その前にもう一度「岩村城」800年の歴史に触れます。

 

 

 

鎌倉時代、源頼朝の重臣「加藤景廉」が文治元年(1185)美濃遠山荘地頭に任じられ築城。長男「景朝」がこの地に移り住み「遠山姓」を名乗ります。以降代々遠山氏がこの地を治めます。鎌倉時代初期頃は、平坦部に築かれた砦あるいは城館的なものだったと思われますが、織田氏・武田氏の抗争が激しくなった戦国時代末期に遠山氏・武田氏の手で本格的な城が構築されていったと思われます。

 

㊟織田氏・徳川氏・武田氏・今川氏・北条氏・上杉氏の関係図「日本の歴史」より。

 

 

武田信玄は西上作戦の途中に「秋山虎繁」に岩村城を攻めさせます。

 

㊟秋山伯耆守。恵林寺蔵(部分)

 

天正元年(1573)のことです。その時城主遠山景任はすでに病没しており、未亡人つまり織田信長の叔母にあたる「修理夫人(おつやの方)」が城主として自ら武装して防戦します。夫婦に子はなく、信長の5男御坊丸(7歳)を養子に迎え家督を守っていたのです。堅固な城であり容易に陥落しそうにもないため、虎繁は城中に密使を送り、修理夫人を妻に迎え、御坊丸の家督相続を条件に開城を持ち掛けます。

岩村遠山氏は美濃遠山氏の宗主でしたが、景前の時武田信玄に攻められ、臣従した。子の景任は、武田氏に従いながら織田氏にも接近し、信長は遠山氏一族を味方に引き入れるため、叔母のおつやの方を娶らせ縁戚関係を結びます。当時の岩村遠山氏は織田氏・武田氏との両属関係にあったと思われます。景任が病死して、岩村遠山氏の血統が絶えると、東美濃の支配権を奪う好機として景任の養嗣子として5男御坊丸を送り込み、おつやの方を後見人とし、実質的に岩村城を支配します。信玄は秋山虎繁に奪還を命じたのがこの戦いです。

 

修理夫人も到底城を守り切るのは難しいと考え、家臣や領民を守ることと引き換えにこの申し出を受け開城します。このことによって美人の誉れ高き信長の叔母は、その後数奇な運命をたどることになります。

 

         

  ㊟恵那市パンフレットより。

 

御坊丸の家督相続を約束し婚姻したものの、秋山虎繁は信玄の怒りを恐れ、御坊丸を人質として信玄のもとに送ってしまいます。このこと知った信長は、怒り狂いますが、近畿攻略に追われ、また武田側の勢いも強く直ちに手が付けられませんでした。

 

天正3年(1575)3月、信長が長篠の戦いで武田軍を打ち破り、力関係が逆転します。信長はこの期を逸せづ同年6月岩村城を攻め、そして5ヶ月にわたる持久戦の上、攻め落とします。信長は秋山虎繁をはじめ修理夫人を許すはずもなく、岐阜城近くの長良川の河原で逆さ磔にして殺してしまいます。その時修理夫人は「我れ女の弱さの為かくなりしも、叔母をかかる非道の扱いをなすは、必ずや因果の報いを受けん!」…と絶叫しつつ果てたといいます。

因果応報(仏教用語‥善い行いをすれば善い報い、悪い行いをすれば悪い報がある)というべきか、信長が本能寺の変で自刃するのは岩村城落城後の7年後のことでした。

 


落城後の岩村城には、信長の筆頭家臣「河尻秀隆」が5万石の城主として入城。城を改修するとともに、全く新しい城下町造りを進めます。

 

㊟岐阜県加茂郡坂祝、猿啄城河尻氏

菩提寺「長蔵寺」蔵

 

東西に流れる岩村川を挟んで北側に侍屋敷、南側に町屋敷とした町造り(この時造られたのが天正疏水と呼ばれる4本の疏水で)で、これが今に残る「岩村の町並み」です。この時城山に登る大手道も付け替えられたのでしょう。

 

                    ㊟「日本の歴史」より。

 

 

天正10年(1582)3月、河尻秀隆は甲州征伐による論功行賞により、甲斐国に移封となり、「森蘭丸」が入城(団忠政説あり‥信長公記)するも、3ヶ月も経たぬ6月2日、本能寺の変により信長と共に討死。信濃から急遽戻った美濃金山城主「森長可(前に金山城で記事にしています)」が怒涛の勢いで東美濃を制圧し、岩村城も手中におさめます。秀吉に組した長可は、長久手の戦いで討死し、城主は「森忠政」が引き継ぎ、このとき城代となった森氏家老「各務元正」は、この後約17年を費やし、近代城郭に変貌させ、現在の城郭が完成したのです。

 

                          ㊟余湖くんのHPより。

 

 

慶長4年(1599)秀吉の死後、森忠政が信濃松代に転封となると、「田丸直昌」が城主となります。所領は美濃国恵那郡・土岐郡・可児郡の4万石でした。関ケ原合戦の時(慶長5年9月)、秀吉恩顧で大坂城番であった直昌は西軍につきますが、西軍敗戦により城を明け渡します。

 

徳川の世になった慶長6年(1601)「松平家乗」が城主となり「岩村藩」が立藩。山上にあった城主居館を山麓に移し、城下町を整備します。以降松平氏2代。正保2年(1645)三河国より「丹羽氏信」が入城、以降丹羽氏5代。元禄15年(1702)信濃国より「松平乗紀」が入城、以降7代をへて明治維新を迎えます。

 

 

 

 

大手門跡を進むと左側に「八幡曲輪跡」があります。ここには「八幡神社」がありました。中世城主遠山氏の氏神で、始祖加藤景廉を祀っていました。明治5年(1872)廃城とともに、山麓に遷座しています。往時は入口に鳥居が建ち、中段には別当寺(神仏習合時代であった)の薬師寺、最奥部に拝殿・本殿、八幡櫓がありました。

 

 

 

 

さらに進むと、右手に石垣がありました。山の地形に合わせて石垣を積んだので菱形の台形となったもの。その上にあった櫓も菱形であったことから「菱櫓」と呼ばれました。全国的にも珍しく貴重な歴史的遺産とされます。

 

 

 

 

この櫓の前に「櫓門(俄坂門)」があり番所もありました。中世の頃はここが大手門(正門)で、麓の大圓寺に通じる険しい急坂(俄坂:旧大手道)も残っています。河尻秀隆の新しい城下町造りにより新大手道(↑図参照)が造られた以降は、非常のときの脱出道だったのでしょうね。俄坂門、俄坂…なんとなくそんなイメージが湧くネーミングです。

 

 

               2023/06/18